朝ドラ「スカーレット」を見ていたら、スピ系の人たちが「バンジー」しちゃう心境がちょっと分かったように思いました。
スカーレットが辛すぎる(/_;)
ここ数週間、朝ドラスカーレットを見るたびに、切ない気持ちが大きくなりすぎて(/_;)、こんな思いするくらいなら、気楽に見ていられる「なつぞら」の方が良かったかも!って思ってしまうくらい、このドラマはリアルに即した視点を崩さないがゆえに、本当に色々考えさせられます。
「八郎沼に嵌まって嵌まって抜けられないわ~」って言っていた時代がガチで懐かしい!って思うくらい、たった1週間でガラリと人のテンションを変えてしまう力がこのドラマにはあります。
↓八郎沼に嵌まってた頃の記事↓
ちなみに上にリンクを貼った記事↑を書いてた時は、この二人のいちゃいちゃっぷりは永遠と思わせるくらいのものだったのですが、実は主人公のきみちゃん(戸田恵梨香)と八さん(松下洸平)は先週から別居してるんです(/_;)
しかも、きみちゃんがお金にならない芸術に没頭しすぎたためという理由で。さらにしかも、その芸術を勧めたのは八さんだったりして。
あぁ…もうややこしい(/_;)
まぁここら辺のこと書くとただただ長くなっていくだけなので端折りますが、スピ系の人たちが自由に溺れていく感覚はこれだったのか!と私が腑に落ちた部分があったので、その事を書きます。
誰の許可も要らない悦の怖さ
最近の私はスカーレットに嵌まりすぎてドラマを見終えた後、「#スカーレット」でTweet検索するのが日課なのですが、二人が別居した翌日の放送回でこんなTweetに出会いまして↓↓、このTweetでスピ系の人たちが自由をやたら悦に感じてしまう理由が妙に分かった気がしたのです。
閉鎖的な家に育ち旧式の結婚をした私は、初めて誰の許可を取ることなく行動できた喜美子の清々しさが実感としてわかる。クリエイターだからでもわがままだからでもない。今でも多くの女性に覚えのある感覚。これに目覚めると元に戻れないことも知ってる。 #スカーレット
— あさ乃 (@asanocchi) January 29, 2020
喜美子の言う「子供の頃はお父ちゃんに、結婚してからはハチさんに、やりたい事は全部話して「お願いします」と断りを入れてきた。それが必要なかった、1人もええなあ」という境地は、今まで彼女を見てきた視聴者からすると「ついにそこにたどり着いてしまったか」という気持ちである#スカーレット
— しましま(朝ドラ/大河) (@shima_asa_dra) January 29, 2020
もちろんきみちゃんの「えぇなぁ」とスピ系の「えぇなぁ」は深みが全然違うとは思うのですが……
たこわささんが言っていた「迷惑かけながら興奮していく感じ」ってこの感じかと、すっきり腑に落ちたというか、分かってたつもりだけれども分かっていなかったことにようやく気がつけたように思いました。
↓たこわささんの「迷惑かけながら興奮していく感じ」の記事↓
私は、どちらかと言えば自由奔放に生きてきてしまったタイプだから、この抑制が外れるという感覚がいまいち分からなくて(ドラマで言えば直子タイプです)……逆にかれこれ7年前に父が半身不随の体となり実家に戻って実家の中で暮らしていかなくてはならない真逆の制約が突如起きて、そこで七転八倒しながら、「制約って実は良いものだな」と徐々に理解し体感してきたから、思考性の展開方法が逆な部分があって、「どうしてそう思っちゃうんだろ?」って不思議に思っていたのだけれども、
リアルな落としどころを続けるスカーレットで、きみちゃんの幼少期から今までをじっと見つめてきた結果、そしてあのTweetを見た結果、世の中の人に蔓延るそういう気持ちは「分からなくはない」とは思いました。
でも現在きみちゃんは、大借金の最中です。
朝ドラだから、ここからきみちゃんは大逆転をしてくれるはずですが、同じように自由に悦を感じてしまった女性の中で大逆転と言える大逆転ができる女性はどれほどいるのかなと思いました。
話は少し逸れますが、現在BSNHKでは7:15~「おしん」を放送してますが、おしんも自由に悦を感じ、自由に悦を求めた女性のお話しなのですが、おしんはずっと不幸です。
また、おしんとかよ(おしんの奉公先のお嬢様)の不幸は、加賀屋(奉公先)があてがってくれた縁談を破談にしたことが原因じゃないかと思えてしかたないです。
つまり、おしんとかよが求めた自由は、不自由を連れてきただけなのではないかとしか思えないことが多々あります。
そして、ドラマになぞらえて自由を考えれば考えるほど、スカーレットに出てくるジョージ富士川の合い言葉「自由は、不自由や!」が、日に日に身に染みます。
自由の先には何がある?
ようやくスピ系の人たちが自由に悦を自然と感じてしまう気持ちは理解できたけれども、「自由は不自由」でもあるんだよね。
そして「自由には必ず責任が伴う」んだよね。
こんなに情報が溢れている現代なのに、なぜかそこは忘れられてしまうよね。
抑制された開放感は一瞬。
その後のが実は辛いと思うよ。
その覚悟がないままに走り出すのは怖いよねと、私は思ってしまったけれど、それは私が自由奔放に生きてきたからこそなのかも知れないけれどね。
自由って、意外と辛いものだよ。
少なくとも幸せとは=(イコール)で結ばれるものではない。
それだけは、私でも分かること。
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「自由には責任が伴う」
これはワタクシのムスメが通っていた高校でよく言われていた言葉です。
ムスメの学校は校則も試験もなく、自主性を重んじる校風で側から見たらやりたい放題の部分もあったと思います。
でも入学当時は「自由=好き勝手」という認識だった子供たちも学校に馴染むに従って「自由に振る舞うからには、そこから派生する事象に責任を持たなくてはならない」ことに気づきます。
そして「校則やテストがあった方がある意味楽」という子が多かったです。
高校生が理解できることを、いい年した大人のスピ系の方々はスルーするのか、ゆりさんのブログを読んでワタクシなりに考えるました。
たぶん校則まみれの中学からフリーな高校に入学して、ハイになって髪染めたり鼻ピとか舌ピやって「校則のある学校ってかわいそう」とか謎のマウントとりだすムスメの学校の新入生と同じなので派生ないかと。
しかも高校生はやがてそのイタさに気づくけど、大人は気づかないというか、自由の結果を見ようとしない。
だって今まで信じてたことひっくり返してバンジー飛んだのに、それが間違いとか言われたらちゃぶ台返しした意味なくなるから。
ワタクシ自身はスピ系が結構好きなのですが、バンジーは命綱あってこそだと思うので、容易に飛べません。
自由は素敵、でも怖い。自分のお尻についた火は自分で消さなくてはならないから。
ちょっと自由と好き勝手を混同しそうになっていたワタクシにこの感覚を思い出させてくれる記事、ありがとうございました😊
こんにちは!
大人の場合は、プライドが大きくなって素直さが欠落しやすいから、だから子供たちが次第に気がつく当り前のこと(自由には責任が伴う)を見落としてしまうのかもしれないですね。
自由に生きることはその分リスキーでもあることを今一度理解し直した上で着実に生きたいですね。
それではこれからも宜しくお願い致します。
ドラマ、かなり進んでしまいましたが、キミちゃんのこの感じ、私も分かるなあと思ってしまいました。極端な制約や我慢からの爆発というか…
心屋さん全盛期の時も、お金が余っていたらハマっていたかもしれない精神状態ではありました。
(ただお金がなくても心屋さんに使ってしまった人は多いんですよね、きっと)
当時は地元の、狭い人間関係に適応できずに悩んでいたからです。
義理からくる出費や付き合い。真面目に聞いていたら破綻するか自分に時間もお金も使えなくなりそうだけど、それ以外に円滑な人間関係は難しそう。
そんなときに「迷惑かけてもいい」なんていうお題目は魅力的ではありました。
ただ悩みのなかにも答えはあるもので、地元の人たちを観察して、私も身の処し方を学んでいき…という次第です。
(地元の人たちが破綻してない、つまり、ほどほど円滑にする術を持っているということ)
うまくできないことも沢山ありますが。
キミちゃんの苦労を思えば大した悩みではありませんが、同時にキミちゃんほどそもそも努力も苦労もしてないことを忘れてはいけないと自戒するのです。
スカーレットが一番おしえてくれるのは、不本意な中にこそ幸運の種があるということ。私も腐らず生きていきたいものです。
おはようございます。
お返事が遅くなりごめんなさい。
もの凄く頂いたコメントに共感してます。
枠に押し込められてしまっている時、人は不満が大きくなりがちで、だから時として心屋さんの言葉は魅力的に映るはずです。
ただし恐いのは、枠に押し込められてしまっている人ほど、さきさんが仰るとおり「努力と苦労をしてきていないケースが多々あること」です。
だから、安易に人のせいにして、その感覚から戻ってこれなくなってしまうのだと思います。
本当にスカーレットってスゴイドラマですよね。
きみちゃんと八さんが結婚するときの言葉は「陶芸家になります」で別れる時の言葉も「陶芸家になります」です。
今までのドラマとはあからさまに深みが違います。
それではこれからも宜しくお願い致します。
こんばんは。とんでもないです!いつもご丁寧な返信ありがとうございます。
陶芸家になります…これもすごいですね。
今週は今週で、たけし&きみちゃんと八郎さんの再会の対比を見せられて、うなっております。
きみちゃんと八郎さんの言う「あっという間」は同じ言葉でも期間にズレがありそうだったり、見る側が行間をま真面目に読んでしまうのも面白いですよね。行間に正解がないところも。
きみちゃんと八郎さんの別れまでを見ていて、芸術家気質を持つ人(きみちゃん)とそうはなれない人(八郎さん)の違いも見えて、興味深かったです。
八郎さんは芸術家になれない気質のお陰で、きちんと勤め人ができて、つぶしもきいて、これは立派な長所なんだけど、そんな自分に八郎は苦しんでいるんだなあと。
きみちゃんときて顔が曇っていく様子を見ていて思いました。
きみちゃんといる限り、八郎さんは身の丈に戻れなかったのかもしれません。
心屋さんの「迷惑かけて良い」は加減の問題で、これ自体は悪い言葉じゃなかったと思っています。
全く迷惑を掛けずに生きていける人はいないし、自分の都合よく動かない人間のことを「迷惑だ」と言ってくる人はいます。
心屋さんの最初を知らないのですが、「迷惑かけていい」で暴走した信者と引きずり合う形で心屋さんもバランスを崩した部分もあるのでは?と想像します。
信者の期待に応えなければ、教祖は成り立ちませんからね。信者ビジネスができる時点で、元々まっとうな人ではないのでしょうが。
こういう、それ自体は悪い言葉じゃなかったというのも、一時期広がった原因かもしれませんね。
おはようございます。
きみちゃんとはちちゃんの再会切なかったですね(/_;)
はちちゃんが帰った後、「追っかけてきみちゃん!追っかけて!って……追っかけないんかーい」って思った人結構いたんじゃないかなと思います。っていうか私はそう思ってました。
心屋さんだけでなく、多くの人は信者との共依存を創り出してしまい、そしてその結果より一層おかしくなっていくように思います。
またかじりで分かった程度の段階が、一番人に広めたい気持ちを持つものですが、その時点での理解ってすごく浅いんですよね。
そして浅いからこそその考えのリスクが見えない。見えないからこそ、「これこそが真理」と大声で言えてしまうのですが、浅はかな者同士が集まれば、当り前に共依存状態になるはずです。
そのせいじゃないかなと思ってます。
それではこれからも宜しくお願い致します。