信じる?信じない?…とは別の切り口で物事を見ない限り、その枠組みのしがらみから外れることはできませんよ♪
主戦場は「情報」ですから、錯綜するのは当り前♪
米大統領選投票日を皮切りに情報錯綜する日々が続き、「一体何を信じたら良いのか」という気持ちに苛まれている人も多いかと思いますが…今の状況を客観的に分析すれば、そうなるのもある意味当然です。
だって、今回の戦争の主戦場は「情報戦」ですから。
っていうか、そもそも戦争において最も重要なポジションを担うのは「情報」ですから。だから、情報戦はいつだって主戦場です。
ただ、かつての時代(日本で言うと明治前)は現代のように、情報の流布が行き届いておりませんでした。ですから、庶民は何が起きているのか分からないままに時代に翻弄されるだけのことになっていたでしょう。
しかし、明治の頃から始まったグローバルによって、庶民へも情報の流布が始まるようになり、第二次世界大戦&敗戦後は情報戦による洗脳が謳歌しました。
そして情報社会となった現代はもちろん、一部のエリート層だけが情報を扱うのではありません。大衆も情報の中で生きています。ですから、現代のようなインフラが構築された世界であれば、当り前に大衆もそこに巻き込まれることになります。
また特に現代は、インタラクティブな情報交換が可能なになった新たな情報空間の上で世界が成り立っていますから、それゆえの混乱は避けられませんし、必然です。
ですから、まずは「有事において情報とは、混乱し、錯綜するものだ」と割り切る事が必要だろうと私は考えます。
それから、戦後教育によって「正解を探す」ことに慣れ親しんだ私たち世代は「間違いを拾うこと」を極端に嫌がる傾向があるんじゃないかと私は感じているのですが、情報が錯綜すれば通常以上に間違いは転がるものですし、正しく見えることすら間違いであることも多いです。
ですから、間違いを拾うことを極端に恐れない気持ちも必要だと思っています。
そのため、まずは今の時代は情報が錯綜する時(有事である)と気が付いて、間違った情報も拾ってしまうことは普通にあることと心得て、情報の波を渡ってもらえたらと思っています。
そして、その波を渡りやすくするためのポイントについて、ここからお伝えしていきますね。
信じるから、見えなくなる。参考にすれば…
ということで、本題。
最近ネットを見ていると「何を信じたらいいのか分からない」という言葉が目につきますが、「信じる」という枠組みで情報を見ているから、分からなくなるだけのことだろうと私は思っています。
というのも…私の発信も含めて、情報というのは常に「参考」にするものであって、「信じる」ものではありませんから…。
また信じる人と参考にする人の違いは、自分の置き所に違いがあると私は思っています。
ちなみに…ついつい「信じる」に重きを置いてしまう人は、デラシネなのだろうと私は考えています。
自分の根が生えていないからこそ、自分の立ち位置が分からず、誰かについていき依存していくしかないのです。だからこそ、「信じる」という形で自分を保とうとしてしまうのだと思います。
一方で「参考」にできる人は、自分軸がある人だろうと私は考えます。
また自分軸は、大地に根を張る意識があって初めて可能になることだとも思っていますから、デラシネを脱却しない限り、この状態になることは難しいだろうと思っています。
戦後世代は敢えてデラシネ状態で生きるように仕向けられているため、そこを脱却するのは大変だと思いますが、これを自力で乗り越えることこそが、今を生きる私たちの使命なのではないかと私は思っています。
何かを信じる前に、自分を信じれる気持ちをもとう!
また、多くの人が「信じる」ことを前面に出す社会環境というのは、自分への自信のなさの現れだとも私は感じています。(デラシネだから自信がないとも言えます)
結局、自分を信じれないから、誰かを頼り、誰かの言葉に依存するようになるのだろうと思います。
一方で自分を信じられるようになれば、人の言葉は参考として取り入れて、自分の道を歩むことができます。
つまり、「何を信じたらいいのか分からない」と思っている人に必要なことは、自分の周囲を取り巻く情報よりも、自分をよく知ることと言えるのではないのかな?と私は思っています。
自分をよく知れば、自分の立ち位置、自分の役割、自分の生きる目的というものがよく見えてきます。
そこが理解できていれば、全ての情報は自分の立ち位置に準じて参考にすることができるし、何かに依存し、何かを信じるという行為にはならないと思います。
つまり今、情報に翻弄されていると感じている人は、巷の情報以上に自分と向き合うべきなのではないかと私は考えます。
そして、基礎の部分を整え直すことが必要な時じゃないのかなと、私は考えます。
だって、建物も基礎がしっかりしていなければ、建築そのものが上手くいきませんからね。
それは、私たち人間も同じ事です。
不安定だと思う人は、まず自分としっかり向き合い直して、その上で自分に必要な情報を見極めましょう。
そして全ての情報は「参考」として自分に取り入れながら、歩むように心掛けましょう。
この違いは、小さく見えてとても大きいですよ♪
どうぞお試しあれ♪
本を発売してます
電子書籍は半額です。(縦書きと横書きと2パターン用意してます。)
生きやすさを手に入れるための 波動とエゴの法則を書いた本【縦書き】
生きやすさを手に入れるための 波動とエゴの法則を書いた本【横書き】
書籍紹介ページへ↓
【新刊発売】生きやすさを手に入れるための波動とエゴの法則を書いた本
こんばんわ。
秀逸な記事、ありがとうござます。
私が常々思ってることが一言一句余すことなく書かれているとすら思える内容でした。
確かに「信じる力」は人の行動の原動力になり得るものでしょうが、あくまでも「自分の決定を信じる」のが前提で、他者のそれを信じることは最後には責任転嫁に変貌します。
「信じる」の挙げ句、思ってた結果と違った場合に「裏切られた」と思ったのなら、それは「信じる」ではなく「依存」に他ならないと思います。「裏切られた」と思うということは「見返り」を無意識にでも思っているという証左。自分に安堵をもたらすことを他人に委ねているだけです。
「信じる」ということはそんな生易しいものではないはずです。
今現在の自分は、過去から己が下した幾多の決定の末にあるものです。
そして、他者を「信じる」ということは『信じることを決定した自分に責任を持つ』という意味です。ですが、この事に自覚がない人がホントに多いです。
昨今の情報錯綜の中で様々な情報を目にするにつけ、一番の肝はやはり竹久さんも仰るように「自分の足場を自覚する」ところからでないと、溢れる情報に右往左往したり、目先の利害に囚われた選択をした挙げ句ドツボに嵌まるのが落ちだったりしますからね。
何をどう選択し行動に反映するにしても、「選択するのは自分の責任」という意識があれば、マスゴミによる煽動に乗せられる事も少なくなるでしょうね。
おはようございます。
共感頂き嬉しいです。ありがとうございます。
仰る通り、決定的に自覚と覚悟が常に欠落してしまうのが現代日本人です。
戦後教育は敢えてそのような人間になるように促されているので、そうなってしまうのも仕方ないのですが、それで苦しんでいるのは私たち自身です。
この希有な時代のタイミングを好機と捉え、みんなでこの呪縛から抜け出したいですね。
それではこれからも宜しくお願い致します。
こんにちは。もとデラシネ、竹久様のおかげで自分を信じてコツコツ地道に生きられている…気がします。少なくとも、2年前よりは。
情報は参考に、その上で自分を信じてこれからも地道に目の前のことに集中して、自分のやるべきことを全うし、時には休みながら、時には踏ん張りながら生きていこうと思います。いつもありがとうございます。
こんばんは。
私も元デラシネですよ。
みんなデラシネ。その環境の中から、自らの力で根を張るのは、とても大変なことだと自分を振り返っても思いますし、今も未だ根を張っているとは思えません。
でも、それを言い聞かせることで見える世界は随分変わりますよね。
お互い地道に根をはり生きていきましょう。
これからも宜しくお願い致します。