※こちらは、以前私がアダルトチルドレン(現在の自分の生きづらさが親との関係に起因すると認めた人)の問題に向き合っていた時に書いた内容を掲出しています。できれば最初からお読み頂ければと思います。→0.はじめに
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アダルトチルドレンは国民病?!
第四章 デュープスと二元論とアダルトチルドレン
4-2.当り前の中に潜む二元論による混乱と生き辛さ
二元論の思考に体が馴染むと、どちらの選択にしか「正しさ」を見つけられなくなるために、「不正」と感じた内容を消滅させることだけに躍起になってしまいがちです。
たとえば、ポジティブシンキングを推奨する動きも、その一つであると感じています。
戦後の日本社会は、日本人でありながら日本人であることをどこかで否定し、そして欧米的な考えを積極的に取り入れてきました。ポジティブシンキングを推奨する動きも、欧米的考え方が「絶対善」と思い込む二元論によって起きていることだと思っています。
昨今の日本は、「ポジティブ=善」、「ネガティブ=悪」的な発想の中で生きているので、暗い気持ちそのものを否定しようとし過ぎる側面を感じます。さらに、「ネガティブは悪だから根絶しなくちゃ」といった風潮が強くなると、暗い気持ちを内観する機会を世の中が封殺してしまいます。その気持ちを無かったことにして、明るい気持ちだけを作ろうとしてしまうのです。
暗い気持ちを否定せず、きちんと内観すれば簡単に解決できることがほとんどなのですが、暗い気持ちを悪いものとして排除していくと、最も大事な工程である内観を行わなくなるので、些細な問題ですら解決しにくくなります。
そもそも日本人は脳科学的に不安を感じやすいタイプの遺伝子を持ち合わせている人がとても多いそうです。にもかかわらず、暗い気持ちをやたらと否定すれば、コンプレックスやストレスはより強く現われてしまうものなのではないのでしょうか。
たとえば水が半分入ったコップを見た時に、楽観的な人は「まだ半分ある」と思うのですが、不安を感じやすい人は「もう半分しかない」と考えます。欧米人は「まだ半分ある」と思う人が多いのに対し、日本人は「もう半分しかない」と不安に感じ焦る人が多いそうなのですが、それは「不安を感じやすい遺伝子を持っている日本人が多いから」と脳科学者の中野信子先生は説明されていました。
私は、日本人が不安に感じやすい遺伝子を持ち合わせている理由は、何千年も農耕民族で生きてきたゆえの事ではないかと考えています。
狩猟民族と違い、農耕民族に必要なのは計画性です。秋の収穫の為に冬から準備をし、秋の収穫の後はその収穫したもので一年過ごしていく民族です。日本には四季があり、秋に限定されない収穫物もありますが、日本の主食はお米です。お米は秋にしか取れません。今も昔も、私たちは秋に収穫したお米で一年を暮らします。一方狩猟民族は、農耕民族のような計画性は逆に苦手だと思います。
日本が他国と比べて几帳面だったり、綿密な計画を重視したり、さらにその計画がきちんと実行に移せるかストレスに感じやすいのも、計画性が必要不可欠となる農耕民族だからこそではないかなと思っています。
たとえば先ほどの水のお話。狩猟民族であれば、食べるものが無くなってから狩りに出かければいいので「まだある」となるでしょう。農耕民族であれば、この備蓄でいつまで過ごせるのかという不安の方が大きくなることが多いと思うので「もうない」になりがちなのだと思います。
私たちが他の民族の人たちよりもついつい不安が大きくなりがちなのは、単純に計画性が必要とされる農耕民族だからなのではないかと考えます。
それから、日本人は自分の気持ちを大事にしようと思いつつも、やはり周りの目が気になったり、周囲がどう思うのかということが気になり、不安な心持ちになりやすい性質を持ち合わせています。これも農耕民族だからではないのでしょうか。畑を耕し作物を収穫するために、古くから日本は村社会で、集団で生きてきました。だからこそ、周囲の目が気になるというデメリットがある反面、互いを思いやる気持ちが自然に生まれるという民族性も持ち合わせています。
また、アメリカなどのポジティブシンキングは、自己防衛のためにポジティブにしている面が強くあるように思えて仕方がありません。そもそもアメリカは、日本とは比べものにならないくらい個人主義であり、個人の権利を主張して生きていかなくてはならない社会です。何か起きた時に、先に謝ったら負けとかいう社会に、彼らは生きています。その為に自分をより大きく見せたり、良く見せたりする必要性が日常にあるように思えます。
だからこそ、自分の本音と裏腹に、無理矢理ポジティブを創り出しているというのが事実なのではないのでしょうか。
それを真似して、私たちも同じようにポジティブであろうとすれば、より心が疲れるだけだと思います。それに、ネガティブな気持ちを噛みしめられる日本人の方が、自分の至らない部分に気がつけているともいえ、そのような控えめな気持ちがあるからこそ、民度が高い国家が成立しているのではないのでしょうか。
こういった私たちのそもそも持ち合わせている民族性と向き合うこともせず、欧米のような考え方を馴染ませようとするからこそ、無理が生じていることは沢山あると思います。また一見デメリットに見える部分も視点を変えればメリットになる部分は沢山あるはずなのに、二元論の考えを定着させ過ぎたために全体を俯瞰できにくくなっています。
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