4-3.二元論によって失われる考える力

※こちらは、以前私がアダルトチルドレン(現在の自分の生きづらさが親との関係に起因すると認めた人)の問題に向き合っていた時に書いた内容を掲出しています。できれば最初からお読み頂ければと思います。→0.はじめに

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アダルトチルドレンは国民病?!

第四章 デュープスと二元論とアダルトチルドレン

 

4-3.二元論によって失われる考える力

 二元論が強化されやすい環境の中で生きていると創造能力が奪われやすくなるということを第三章でも話題にしましたが、戦後に生きる日本人が最も失ったであろうことは、想像力の根本となる「考える力」だと私は思います。

私は十五年間お世話になった会社で、マーケティングとプロモーションの実務をしてきました。その為、日々「考えて、実践すること」が私の仕事となり、この仕事を通して考える力と行動力を発育することができましたが、入社当初は本当に「考えること」が苦手でしかたありませんでした。答えを憶えることで賢くなると思っていた私は、何をどう考えればいいのかすら分からなかったのです。

戦後教育を受けて大人になっていく日本人の多くは、同じような悩みを抱えているのではないかと思いますし、自分でどう考えていいのか分からないからこそ、誰かに教えてもらうことが当り前になってしまっている傾向も感じます。なぜなら二元論の思考性が馴染むと「なぜ(Why)」を主体とした考える力が弱まってしまうからです。

私たちの意識は一度でも「正しい」と思い込んだことに対して、その価値観が揺らぎにくい性質を持ち合わせています。しかも、二元論の世界の中で定義付けた正しさはより強固に作用しますから、その正しさを自らの力で否定することが非常に困難になるのです。

たとえば数字を見た時に沸き上がる感情一つとってもこの傾向を知ることができます。

私たちの日常生活は、年齢、体重、身長、月収、年収、支払い、時間、ランキング、仕事の成果、偏差値、点数、価格、カロリーなど、常に数字がつきまとっています。その数字に多くの人は一喜一憂しています。数字の中に価値を作り出しているから、それぞれ持ち合わせている自分の価値を基準にして、喜んだり、落ち込んだりしています。

また現代社会で生きる私たちの思考の中には、常に金銭が付きまといます。だから、お金のような単なる道具の数字に感情を埋め込むことまでしてしまっています。さらに、「お金があったら幸せ」だけではなく、人の価値ということまでもお金を基準に考えるようになってしまいまっています。

数字は単なる指標であり道具です。しかし、「どちらかが正しい」と思い込む思考癖は、単なる数字にも感情を入れ込む習性を作り出し、そして自分の中にある「正しいと思う結果」が得られるように努力を重ねてしまいます。

だから、「なぜ(Why)」に気持ちが向かいにくいのです。「なぜ(Why)」を一瞬考えたとしても、その。「なぜ(Why)」は「正しいと思う結果」を得る為の方策を考えることに費やされやすいのです。だから、「なぜ?(Why)」を考えているようで「どうして?(How)」ばかりに目が行ってしまうのだと思います。そして私たちの「考える」は「How to」を探す行為にすり替わってしまうのです。

日本語において、「なぜ?」と「どうして?」の違いはニュアンスだけで、言葉の意味はほぼ同意として受け取られていると思いますが、英語の「Why」と「How」は明確に意味が違います。

「Why」の場合は、原因や理由を探る行為となり、「How」の場合は、感覚的なことや方法・手段を問う行為となります。

ここを理解せず、私たちの「考える」は「How」だけに注視し、「How to」を探す行為になっているから、問題が解決していかないのです。

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