【ちょっと+】従うだけの人生にならないために必要な事

昨日のお話の続きです。

【違いは大きい】学ぶのか、それとも従うのか?

2019年10月10日

それでは改めて始めます。

本題の前にお知らせ。

使ったことのない機能を積極的に使っていきたいと現在思っておりまして、ですからこの記事は初めて分割機能を使ってみました。

そのためこのページの最後まで読んでもまだ続きがあります。

そしてこのページ全部を読み終わると、このボタン↓が出てくるので

それを押して、続きを読んでください。

全体のページ数が分かる設定にしたいのですが、まだ良く分からないのですみません。

少しずついろんな機能を覚えて活用していきたいと思っていますので、お手数かけますが宜しくお願い致します。

 

では始めます。

 

 

従う人になってしまう人に絶対に足りないもの

従う人になってしまう人は、「考えることを忘れる」=「盗む」という行為が欠落するだけでなく、絶対的に足りないものがもう一つあるよなと私は思ってます。

それが「対等」だと私は思ってます。

対等という感覚を説明するために、ちょっとぶっ飛んだ昔話をします。

実は私、精神世界に目覚めてそして色々な宗教や精神世界を学び始めてすぐ……仏陀って普通の人じゃんって思っちゃったんですよね。

だからこそ、仏陀超えよう!っていうより超えなきゃって思ったんですよね。

ほんと……図々しいにほどがあるとは思うし、畏れ多いという言葉を知らないとも言えるのですが……こういう感覚が「対等」の1つなのではないかと……。

だって、2500年前に到達した境地に2500年後に生きてるうちらが到達できない方がおかしくないですか?。

だって今なんて誰でも簡単にインドにいけますよ。

小野妹子が遣隋使していた時代とは違うし、空海が唐に渡った時代とは何もかも違います。

あの頃は1つの教えや文化を得る為に命がけの苦行が必要だったのに、今なんてスマホポチッとしたら、大概の情報や教えなんて得れちゃうモノですよ。

そんな便利な時代に生きてるうちらが、あの時代を超えられないとか言うことが、ちゃんちゃらおかしいわって私は思ったんですよね。

しかも、時代は違えど悩んでいる内容は同じ。そして仏陀は、その感情を克服して生きてみた結果、分かったことを伝えているだけなのに……なぜか仏陀を崇めているだけの事になっているのが、正直ちゃんちゃらおかしいと思ったのです。

もしも私が仏陀なら、超えてくれ!どうか自分を超えてくれ!って思うはずなのになって……思えてしかたなくて、だから仏陀超えよう!っていうより超えなきゃっていう気持ちになりました。

でも、普通はこういう事を思うことこそが畏れ多く御法度になっているように思います。

なぜ宗教や思想面はいつもこうなってしまうのでしょうね……私は、地元が産業畑なせいかこの感覚がとっても不思議です。

2 件のコメント

  • すごーく腑に落ちました。開眼?というと大げさですし語彙力がなくてこのスッキリした感情を文章で表せないのですが、いつも生きる為のヒントをたくさんいただいております。ありがとうございます。

    • こんにちは。
      腑に落ちたとお聞きし、私も嬉しく思います。
      どうぞこれからも宜しくお願い致します☆

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