【実は同じじゃないの?】美味しい野菜の育て方と人間の育て方

害がないことを良いとする昨今の世の中。

私はこれが大嫌い。

 

そもそも私は菌体質です。

私は生まれつき、菌と共生せざるを得ない体質に生まれたからだと思うけれども、除菌とか、菌を撲滅しようという動きはそもそも好きじゃない。

私は生まれつき扁桃炎で……つまり慢性扁桃炎で……だから幼い頃はそのせいで熱を出すことも多く、だから扁桃腺を切ろうかと親と相談したことが何度もありました。

ただ、病院の先生によると、「扁桃腺で菌が共生してくれているからこそ、大病にかかることもなく、高熱になることもない。多少熱が出ることがあっても共生している菌のおかげで健康であると思った方が良い」ということだったので、時折急激な発熱に苦しむことが20代くらいまではあったけれども、切らずにここまでやってきました。

というか、扁桃腺のことで本当に辛かったのは幼少期~10代までのことで、おかげさまで20代からは、かなり扁桃腺のおかげで健康です。

ぶっちゃけ、未だにインフルエンザにかかったことがないですし……それもこれも幼い頃から菌と共生する体質を身につけたおかげではなかろうかと思っています。

そして、私のこの健康は常に「菌のおかげ!」と思っている気持ちが大きいのもあって、世の中が除菌とか殺菌とかに過敏過ぎるこの世の中ってどうなんだろうって思う気持ちが多い部分があります。

決して不衛生を奨励している訳ではないのですが、あまりに過敏に成りすぎているからこそ、菌と触れあう機会が日常的に減り、その機会の欠落によって、些細な事が大袈裟になってしまっていることだって増えているのではなかろうかと思う事が多いです。

 

害を無くそうとする割に……。

今の世の中はあちらもこちらも「害」を無くすことに躍起になり続けていると思います。

安心安全な世の中で人生を過ごせるように「害」の排除に躍起になっているように感じています。

それで本当に良い世の中が築けるなら私は文句も言わないし、この社会体制を支持します。

しかしながら、害を排除すればするほど、生まれるのはただの弱い人間です。

そして、ひ弱な社会です。

これってどうなんでしょうね。

とにかく打たれ弱く繊細で、傷ついた後にリカバーもできず、1人で立つこともできず、ただただ依存するだけの人生になっていまう人間が量産されているだけのように見えるのですが……このように感じているのは私だけでしょうか。

 

美味しい野菜を食べる為に、過酷を強いるのにね~

一方で、美食大国となった我国は、美味しい食物を作ることには躍起で、テレビをつければ四六時中誰かが何かを食べている映像が映し出されます。

それと付随して、その食物がどうしてここまで美味しくなったのかという説明映像も一緒に流れます。

この時に毎度私が違和感を覚えるのは、「過酷な人生は嫌だ!」と言い張る昨今の風潮に相反して、作物には敢えて過酷を強いて美味しく育てているという矛盾です。

甘いトマトを作るためには、甘いメロンを作るためには、水分を極限まで与えない的な話はよく聞きます。

そうして極限の状態を敢えて作る事によって、糖度が増すということくらい、庶民の素人であっても周知の事実なくらい、よく聞く情報でしょう。

こういう時の映像には「過酷」という言葉がやたらと前向きに使われているのも特徴です。

人間も食物も同じ生物です。

私は、人間も食物も美味しくなるためには同様の過程が必要になるんじゃないのかな?っていつも思うのですが、人間に対しては、逆方向。

それが違和感で、違和感でしかたがないのですが、それは私の環境が野菜っぽかったからだと思います。

 

少なくとも私は、世の中的には過酷と言える環境の中で20代を過ごすことになってしまったからこそ、どうしてもそう思います。

【私の場合②】使命を果たすために、社会でそのスキルを磨くのだと思う。

今の世の中は過酷という言葉を毛嫌いします。多少でも辛い経験をせざるを得ない会社のことはブラック企業と呼ばれます。そうして、そういう環境が世の中からどんどん排除されていますが、これって本当は多くの人を辛くさせていくきっかけになっているのではないのかなと私は思ってます。

実際私も当時は本当に辛かったです。

だけれども、今の私があるのは、今を楽しく過ごせているのは、あの時の逆境とも言える境遇の中で、つまりは過酷な環境の中で逞しく生きざるを得なかったからだと思います。

だから、美味しい野菜の育て方を見ていると、20代の頃の自分とやたらとかぶるのです。

それから、美味しい野菜を育てるためにはやたらと「過酷」を駆使したがるのに、こと人間の話となるとそこを全て除外して、どうしたら「傷つかずに生きていけるのか」とかいう馬鹿げたことにムキなって、「傷つかないことが幸せ」みたいな勘違いまで付随して生きようとしているのが、おかしいなとしか思えないのです。

 

傷つかずに愛を知ってる人なんてみたことない

傷つかない人生を選択する人は、単に傷つくことが怖いことで、良くないことだと思っているだけだと思います。

そして、傷つきたくない理由は、単に自分が可愛いからでしょう。

そういう人ほど、愛とかいう言葉を多用したがりますが、そういう人が本当の愛が分かっているとは到底思えません。

愛という言葉を背景に、自分が好かれたいという思いしか私には見えません。

自分が傷つくことすら恐れる人が、人を守れるものでしょうか。

守ることもできずに、愛が分かるものでしょうか。

 

それ以前の問題として、荒波の中で、自分を保つことはできるのでしょうか。

 

温室の環境の中で、いい人であることくらい誰にだってできます。

嵐の夜に、極寒の時に、平然としていられる人、他者を思いやれる人、自分の事を顧みず周囲のために先頭に立つことのできる強さを兼ね備えれる人こそ、強い愛情を持ち合せる人と言えるのではないのでしょうか。

それも分からず、無菌で温室の中で騒ぐ愛ほど馬鹿馬鹿しいものはないと、私は思ってます。

 

 

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2 件のコメント

  • いつも素敵な記事をありがとうございます。
    私も同感です!肉体的にも精神的にも、あまりに無菌状態で生きていると、どんどん弱くなりますよね。

    いかに傷つかないように生きるか?
    いかに嫌なことが起きないように過ごすか?

    で生きている人ほど、人生そのものが停滞して淀んでいるようにしか見えないです。
    手に入れたいものが沢山あるのに、傷つかないように、汚れないように生きているから、何も手に入らないし、精神的にも鬱屈していくというか。

    どんなに自分を守っていても、誰にも防ぐことのできない大嵐があるから、その中で強く生きていく術を身につけていかないと生きにくさは増すだけだなぁと思う今日この頃です。

    • こんにちは。共感してくださりありがとうございます。
      傷つく事態を避けるよりも、何が起きても動じない強靱な心を育んだ方が良いと私は思うのですが……社会の方向性は逆に張り切って向かっていますよね。

      それでも逞しく生きる人たちに発言権が与えられるようになって、少しは淀んだものが流れ出しているようには思いますが……まずは私も含めてそれぞれが、何が起きても動じないその上で楽しむ生き方をしていくしかないなと思ってます。
      どうぞこれからも宜しくお願い致します。

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