【かれこれ160年】みんな次の世代の踏み台として生きてきた。

さっきちょっと恐怖な記事をあげてしまったので、恐怖な波動の低い気持ちに囚われてしまう人がいるかもしれません。

それは私が意図していない方向性でもあるので、視点を変えた記事を幾つか書きますね。

日本ほど個人主義が不向きな国民性はない。

日本は地球に存在する国家として最も長い2678年以上の歴史のある国です。

この長い歴史のほとんどは単一民族だけで国を統治してきてたがゆえ、国が乗っ取られるとか国が無くなるとか、はたまた国が無いとかいう、地球全体で見ればそんじょそこらで起きている当たり前の話になかなか実感が持てません。

さらに、日本は農耕民族ですので、集団生活を軸として何千年も時を紡いできました。

世の中は個人の主張を強める風潮が主にメディアの影響で強くなっていますが、集団でこそ本来の力を発揮することのできるのが日本人です。

この国が抱える現代的な病の多くは、集団としてどう捉えるかという日本人としての当たり前の発想が封殺されてしまっていることも要因だと考えます。

 

個人の幸せよりも、集団の利益を考える。

現代人が最も思考的に欠如してしまっているのは、集団の利益を考えることではないかと私は思います。

ありがちなスピリチュアル本の多くは、如何に個人として幸せになるのかという部分にフォーカスしているかと思います。

まずは自分自身が幸せにならなくては、他者を幸せになどできないのは事実であるので、その方向性に異論はないのですが、結果、その情報だけを真に受けて、より強い個人主義や自分勝手さんを生み出してしまっている現状は考え物でしょう。

個人の幸せだけを追求すればするほど、集団との意識的乖離は強くなり、「自分さえ良ければ良い」という気持ちが増していきます。

ましてや、個人として自分を特別に思う気持ちも増していくので、自分という存在が誰かの犠牲になるということに果てしない抵抗感を感じるようになるでしょう。

いわゆる人権屋たちが巧みに誘導する個人の尊重による個人崇拝主義が蔓延していくことになります。

これの何が問題かというと、個人を特別に思い、個人を尊重することによって、個人の中に本来あるはずの他者に配慮するべき責任感が欠如していくのです。

自分さえ良ければ良いという思いは、自己がこの国の構成する一員であるという大事な責任を不在化させます。

自分さえ良ければ良いという思いは、この国の未来のために自分がどうするべきかという責任も不在化させます。

私が左派嫌いなのは、左派の多くは結論個人主義なのです。

 

左派と触れあって実感したゲスさ

私は政治のことがあまりよく分からなかった時代に、山本太郎さんを応援してしまいました。

私が山本さんを応援した2012年は、東日本大震災の混乱が続いており、さらに政権をまだ民主党が握っていたこともあって、本当に国家的危機を否が応でも感じざるを得ない状況でした。

当時の私は自民党のことをあまり良く思っておらず、安倍さんのことも悪いイメージでしか捉えていなかったため、第三局になる人を応援しようと思ったのです。

その時私の気持ちは単純にこの国を守りたいという気持ちでした。

しかし、現場に行ってみてそれがとんだ間違いだった事に気がつきました。

そこに集まっていたボランティアの人と話をしていた時のことです。

 

「この国を捨ててでも、僕は生き延びる」

とある人が言いました。

そして周りはその発言を肯定していて、自分の思いとの違いに本当に驚きました。

私はこの国のことを思いボランティアに参加したけれど、集まる人の多くは個人の損益しか考えていないのだなとショックを受けました。

口では国のこととか国民のこととか言ってるけれど、自分が犠牲になってでもこの国を守る気概なんてないんだなって思いました。

左派に飛び込んでみたからこそ、左派の本音が一気に理解できたのは有難かったと思います。

ただ、本音がしっかり分かるようになってからは、関わりたいとは一切思いません。

なぜなら、犠牲になる覚悟なしに、自分だけは優雅に生きていきたいと思う気持ちを持ち合わせている時点で、この国の問題は結局何も解決しないからです。

 

ちなみに、その一年前に私は精神世界に飛び込む決意をするのですが、そうしようと思ったのも、決して自分のためではありません。

見えない人たちから本気で頼まれたからです。

頼まれた事が本当かどうか、真実かどうかは分からないけれど、もし本当の話だったら、もう自分のことなんて考えたらダメだなって思ったんです。

私の人生くらいどうなってもいいか、私の人生が犠牲になるくらいのことならいいかって思ったんです。

こんな風な覚悟を持って、精神世界に飛び込んだ私にとって、左派の人たちの本音はガッカリという言葉以外に表現する言葉が見当たりませんでした。

もちろん、スピリチュアル界隈の話がどれもこれも薄気味悪く感じてしまったのは、言わずもがなでしょう。

 

祖先が犠牲となって残してくれた日本

集団のために自分が犠牲になるという考えは、古臭い考えだと思う人がいるかもしれません。

特に個人崇拝主義パラダイスとなってしまった現代日本においては、抵抗を感じる人が多いと思います。

しかしながら、日本の歴史を紐解いてみて痛感するのは、私たちの人生や日常というのは、常に誰かの犠牲があってこそ成り立っているのです。

幕末の動乱からかれこれ160年。あの時から日本は変化の激しい世界を生き抜くことを強いられています。

そして、少なくともこの160年の日本人の命というのは、変わりゆく世界の中で、日本が日本であり続けるように祖先たちが犠牲となって築き上げてくれたものでしかありません。

祖先たちが未来の日本を憂い思い、その為に自分たちが犠牲となって日本を守り続けてくれたから今があるだけということを現代人の私たちだけがすっかり忘れています。

また老害とも呼ばれる団塊世代の人たちも、国の復興のために様々な部分で犠牲になってくれたからこそ今があることは、やっぱり忘れてはいけません。

私たちの不平不満の多くは、犠牲になるという覚悟なく、自己都合甚だしい自己実現というものに注視するからこそ生まれている部分も沢山あると思います。

 

犠牲になることで与えられる幸福

精神世界と向き合おうとする時、多くの人は自己の幸せのために始める方が多いかと思います。

先ほど少し話しましたが、私の場合は逆でした。

「自分の人生が犠牲になるだけで済むならいいか」と思って始めました。

 

精神世界と本気で向き合うには覚悟が必要だと思ったからこそ、自己の幸せの追求の全てを頭から追い払い、自分が犠牲になっても良いという決断を持って進んで参りました。

 

結果、これが良かったのだと素直に思います。

 

「自分がどうなるのか」という視点を持ち合わせている限り、視野は狭まれます。

さらに心は恐怖で充ち満ちていきます。

一方、死ぬことも厭わない覚悟を持って物事に望むと、視野が広がり全体が見えてきます。

さらに、いつ死んだって良い、自分の評価などどうでも良いと思っているので、日常に蔓延る様々な恐怖が自分の元から姿を消していきます。

 

すると、生活が滅茶苦茶シンプルになっていきます。

私の場合は、精神世界と向き合うことでこびり付いていたプライドやエゴがべしべしと剥がれていったので、幸せを恒常的に感じられるまでになってしまいました(笑)

犠牲になると言ってた割にすんませんって感じです(´_`。)

 

 

結局、私たちは私たち一人一人の人生を過大評価しすぎじゃないかなと思います。

過大評価し過ぎた結果、日常の様々な場所に要らん恐怖を自ら醸成していまい、さらにその恐怖に怯えて生きることを強いられているのだと思います。

WW3が始まるなんていう記事を読むと、「自分の人生はこれからどうなってしまうのだろう」という恐怖を抱えてしまう人は沢山いることでしょう。

ここで「自分」を考えてしまう人が、これから不幸になる人だと思います。

逆にここで、自ら犠牲になってでも国を守るという覚悟を決めた人には、ベリベリとプライドやエゴが消滅していくと思うので、一気に心が軽くなるだろうと思います。

 

少なくともこの160年祖先は文句も言わず、この国の未来の為に、いつか生まれる私たちの為に犠牲になってくれたことを、私たちは忘れてはいけません。

そういった事が分からない人は、これからの時代の中で、どんどん蹴落とされていくことになるだろうなってやっぱり思います。

波動上昇によって日本も今先祖返りしていることを肝に銘じて、幕末・明治・大正・昭和と先人たちがどのように乗り越えてきたのか、思い出しつつ前に進んでいきましょう。

 

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