6-4.親も愛されたがってる。

※こちらは、以前私がアダルトチルドレン(現在の自分の生きづらさが親との関係に起因すると認めた人)の問題に向き合っていた時に書いた内容を掲出しています。できれば最初からお読み頂ければと思います。→0.はじめに

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アダルトチルドレンは国民病?!

第六章 私の格闘記

 

6-4.親も愛されたがってる。

ある日ふと気がついたんです。

洗濯物を畳んでる母の背中がものすごく「寂しい」と訴えている事に。

家事って、誰かに認めてもらうものでも、褒められるものでもない、やって当たり前だと思われて、誰からも感謝されない。

そんな思いが母の中でどんどん大きく積もっていってたんじゃないかな?と、思いました。

決して感謝していない訳じゃないけど、別に口に出すほどの事でもないと思っていたりするし、感謝を口にしようかなと思っている矢先に、母から嫌味に取れるような言葉が投げかけられれば、逆に腹立たしい気持ちの方が圧倒的に大きくなってしまうし。

でもよくよく考えれば、人って、寂しい時の方が、攻撃的になってしまうんですよね。

だからきっと、母の中にあった「誰も自分の気持ちなんて分かってくれない。」という寂しい気持ちが、結局は攻撃的な言葉に変わってしまっていたのではないかと今は思います。

私は一時期、母の攻撃的だと感じる一言の連続に悩んでいたのですが、母の寂しそうな背中を見て、思いを一変させました。

とにかく、日常的に「ありがとう」という言葉を増やしてみたのです。

当たり前にやってくれている家事や庭仕事など、とにかく「ありがとう」という言葉を増やしてみました。

私は、言ってみて初めて気がついたのですが、親に対して日常的に、「ありがとう」と、言ってませんでした。

そして、「ありがとう」という言葉を増やしてみた、ただそれだけの事で、母の背中は随分元気になり、攻撃的な言葉は随分と減りました。

その母の背中から、もう一つ気がつく事がありました。

親も一人の人間なんだっていう事。

親って、どうしても特別だから、「一人の人」として客観的に見れなくなってしまいます。

それは、保育士の幼馴染が「自分の子供となると、どうしても他の子供と違う感情が宿ってしまう」と言っていたくらい特別な感情が宿ってしまう関係値なのだと思います。だからこそ、互いに放つ特別な思いが、「一人の人」としての感覚を鈍らせてしまうのだと思います。

でも、やっぱり、親も一人の人。

そういう風に捉えてみた方が、ひょっとしたら上手くいくかもしれない、そう考えるようになりました。

酒場などで会う、親と同世代の人の話は素直に聞けるのに、何故か親というフィルターを通して発せられる言葉は真っ直ぐ受け止められない。それは何故かと言われれば、「やはり親子間の中で蓄積されてしまった特別な感情によってではないかな?」と、思い始めました。

そこで、私は試しに、「生まれた頃から私のことを知っている付き合いの長い友人」として、両親を眺めるようにしてみました。

この方法がすごく良かったのです。

親の言葉は小さい頃から培った色んな材料が合わさってしまうので、たった一言でも、色んな意味を勝手に考えてしまいます。

それに、「親の言葉に従わなきゃ」と、潜在的に宿っている気持ちが余計自分の心を締め付けるのです。

だけど、「生まれた頃から私のことを知っている付き合いの長い友人」、要は、幼馴染くらいの感覚で向き合うと、親の一言の中に勝手に自分で膨らんでいた妄想が外れて、シンプルにアドバイスしてくれてる言葉のように受け取れるようになります。

そして、従わなきゃいけないと潜在的に埋め込まれている主従の関係値が、友達という並列の関係に変わる事で、今までの上下関係から解き放たれます。

親のことを「友達」みたいに思うなんて、常識はずれだと思われたり、情がないように思われるかもしれませんが、近すぎる相手って、近すぎるがゆえに、良いところを見失ってしまいがちだと思います。

それは、親子関係だけでなく、恋人とか夫婦関係にも言える事ではないのでしょうか。

距離が近い、そして情が深過ぎると、それでかえって関係がおかしくなってしまう事は色々とあると思うのです。

だから、大人になって独立して、盆や正月などでたまに会う関係であれば、上手く行ってたのに、それが一週間、二週間、さらには、何ヶ月も、ずっと一緒にいなくてはならない環境になった途端、ありとあらゆるストレスが噴出してしまうようになったりして。

実は、私もそうなのです。十年以上、親と離れて暮らしていたのですが、転勤やら親の介護やらで、再び一緒に暮らす事になりました。距離があった頃は、友好的に保ち続けられていた親子関係も、久しぶりに一緒にいる時間が増えれば増えるほど、それがストレスになっていき、不快な気分が続きました。「このままじゃ、何の解決にもならないな」と考えるに至って、何が私を不快な気分に追い込むのか、どうしたらいいのか考え抜いて「友達」としての眼差しで向き合うことをやってみました。

この方法で、親に対し客観性が少し生まれました。今まで否が応でも噴出してしまっていた情から少し開放されるのです。

ほんの少しでも「客観性」のある視点を自らが持つ事によって、今まで情が先に噴出してしまいがちになる親子関係を冷静にコントロール出来るようになり、親の小言や会話の中に宿る「具体的な嫌な部分」や「イラっとする部分」がどこなのか分析できるようになりました。

こうして、親のことを客観視出来るようになり、具体的に親の嫌な部分が明確になる事が次のステップに進む為の大きなヒントになります。

 

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