信田さよこさんの本を読んでいたら「デラシネ」という心理学用語と初めて触れあうことになりました。
名古屋人的に言葉のインパクトがすごいので、それふまえて記事にします。
名古屋弁で「でら」は「ものすごい」って意味です。
心理学用語で使われている「デラシネ」というのは、
デラシネ【(フランス)déraciné】の意味
根無し草。転じて、故郷や祖国から切り離された人。
で、フランス語のままの音で流入している言葉です。
なのですが……、名古屋人が普通に持ち合わせている感覚のままにこの言葉の意味を受け取ると、もの凄いことになります。
名古屋で「でら」という言葉は、「ものすごい」という意味があります。
たとえば、「でらうま」だったら、「めっちゃ旨い!」って意味になります。
ご当地ビールを筆頭に、やたら「でら」をつけたがります。
名古屋人にとって「でら」とは、日常的に馴染む強調アクセントみたいなものなんですよね。
ですから、「でら」に対して、並々ならぬ日常感を持ち合わせている名古屋人が「デラシネ」という言葉をみると、
めっちゃ死ね
か
めっちゃ死ぬ
的な意味でどうしても捉えていしまいます。
心理用語的には「根無し草」という意味が発端となり、本来あるべきコミュニティから切り離された人をさす用語として相応しいのはずなのですが、
20年以上前から「日本人に必要なのは根っこだ!」と仰り続けて活動されている高山曜三先生に長年指導してもらっているので、このデラシネに対してもの凄い独自解釈が生まれてしまっています。
↓高山先生の紹介と関連記事↓
根無し草の状態で生きてると、めっちゃ死ぬ(めっちゃ辛い)
っていう意味に取れてくるんですね。
でも、生きる事に浮遊感を持ち合わせてしまっている人ほど、生き辛さを抱えているのは事実だと思います。
ですから、根無し草の状態の人が死ぬほどの辛さを抱えてしまい、人生を彷徨うケースは多いように思え、結果この蔓延こそが多くの社会問題を引き起こしているとも言えるではないかなと思うようになりました。
そして、もう一つ思ったのが、スピリチュアルに嵌まる人やそれを商売にしていこうとする人の多くは、デラシネな人が多いよなぁということ。
だから、最初に求めるのが横の繋がりになるのかなと思います。
根が無いからこそ、不安定になりやすい。だから人との繋がりをやたらほしがるのかなと思います。
根が無い同士が集まった所で、結局不安定なことは変わらないのに、デラシネだからこそ、そういう錯覚が芽生えやすいのではないのかなと思います。
しかし、根無し草であれば、風に簡単に吹き飛ばされてしまうでしょうし、風によって傍にいる仲間はころころ変わるものでしょう。
スピリチュアルな人たちがころころと仲間を変えたがるのもこの性質があるからでしょう。
世の中の風に耐えうる程の根を持ち合わせていないから、風によって自分の方向性がころころ変わってしまい、仲間も変わってしまう。
その変化によって、自分は変わったと思い込むのだが、実は同じ所をグルグルしているだけで、本当は何も変わっていない。
先日こちらで、「木を見て森を見ずではなく、私は土が見たいんだ!」という記事を書きました。
デラシネという言葉に出会って、改めて土を見つめ、土地に根を貼る生き方の必要性を感じた今日この頃です。
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今日のリンク集
根無し草感、わかります。
ゆりこさんのすすめで虎ノ門ニュースをみて、
今日初めて竹田さんの著書(日本人はいつ〜)を読んで、多くの日本人が根無し草感を持っているのでは、と思いました。
竹田さんの言葉を信じるなら、戦後教育は日本人から歴史と神話を学ぶことを剥奪し、結果日本に生まれながら日本を知らない、根無し草の国民が教育によって生み出され、そのことが色々な歪みをひきおこしてるのかな、、と
戦後教育に見事にやられている1人なので、こつこつ、神話と歴史の本を読んで行こうと思います。
神話や歴史を知ったその先で、見ること、感じることに変化が生まれるのが、楽しみです。
いつもありがとうございます。
コメントありがとうございます。
私も、戦後教育に問題があると考える一人で、それが現在のデラシネ増殖に繋がっているのだろうと思います。
神話を理解したり、事実に即した歴史の知識を増やしていくと、びっくりするくらい世の中が変わって見えますし、自分が日本人である自覚も生まれると思います。
それが、デラシネ克服のきっかけになるだろうと私も思っています。
どうぞこれからも宜しくお願い致します。