ここ数年、発達障害という何とも罪深い言葉が横行しています。
障害児は確かに生まれてしまいます。
でも
発達障害と認定されてしまった子供たちは、本当にそう烙印を押される必要のある子供たちだけに限られているのでしょうか。
大人の枠組みで勝手に決め込んでいませんか?
物議をかもしそうなこのお題ですが、私の思っていることを書きますね。
発達の速度は違うものだろ!
私は発達障害というカテゴリーのほとんどが、大人のエゴによって成り立っているとしか思えません。
子供たちの興味や発達速度を完全に無視して、概ね「あるべき」または「であるであろう」という基準点に基づいて、まるで血圧のように正常値を定めて、そして定義しているようにしか思えません。
最近は、発達障害の子供が急に増えているなんてニュースが目につきます。
私は違うと思いますけれどね。
大人が勝手に定めた基準によって、その範疇に当てはまらなかった子供が実は沢山いただけだと思うのです。
大人の思惑に子供を当てはめることこそが不幸の始まり
私は幼少期の頃から、やたら記憶力だけが良かったです。
だから未だに保育園での出来事。小学校での出来事。それをありありと思い出すことができます。
はっきり言いますと、私は幼少時代とても賢い子でした。
大人の気持ちが分かり、子供としての気持ちも持ち、その合点行く塩梅を子供ながら上手く見つけれていた子供だと思います。
だけれども、全てが私のような子供ではありませんでした。
どんくさい子も沢山いたし、要領の悪い子も沢山いました。
自分のクラスを思い出してみても、今の時代なら「発達障害」という烙印を押されてしまう子供は、クラスの中に、5分の1くらいはいたんじゃないかなって思います。
でも……大人になって会ってみると……
発達障害?って思う友達も、みんなちゃんとした大人になってる。
特に小学生の頃に出会った物覚えの悪い友達とか、運動神経が悪い友達と言うのは、今でいうと「発達障害」に認定されちゃうんじゃないかなって思います。
小学生の頃は私自身もちょっとっていうかかなり、その子たちの事を目下な感覚で見ていたことは否めません。
だけれども、今、会ってみたりすると、言葉悪いけど「醜いアヒルの子」よろしく、目下な感じで思っていたことを心底反省するような気持になるくらい成長を遂げる友達ばかりです。
っていうか、体がいつ時期に大きくなるか、それぞれに差異があるのと同じで、その頃に体格の違いはあったとしても、大人になってみれば、あの時感じていた差異を全く感じなくるのが普通なのではないでしょうか。
それを大人が勝手に定義して
〇歳までには〇〇出来るのが普通
的な定義を横行させた結果、それに当てはまらない子供たちを発達障害としているようにしか、私には思えません。
子供においては、それは身長が伸びる時期が突然現れるのと同じく、いつ出来るようになるのかはさっぱり分からないくらいの物理的問題に等しいと私は思うのです。
昨年たまたま、発達障害に向き合っている人たちと膝を付け合わせなくてはならない環境があって、私なりの意見を言いつつ彼女たちの意見を受け入れ、それ以上のことは言わないようにしていましたが……
この際だから、
はっきり言います!
どう考えても問題はあなたの方にあります!
私は結婚もしたことがなければ、子供も産んだこともありません。
だから、子供の事に関しては口をつむってきました。
だって、体験や体感をしたことじゃない内容を、人に向かって偉そうに言う資格はないからです。
でも、半年かけて私なりに発達障害に関して情報を収集し、勉強はしてきました。
だからこそ、今ははっきり言えます。
発達障害に着眼し、執着する大人の方が、問題です。
狭い了見しか持ち合わせていない自分(大人)なのも関わらず、そんな狭い了見しか持ち合わせていない自分(大人)だからこそ、その狭い範囲で子供を育てようとするから、子供たちが息詰まり、枠から離れようとするのにも関わらず、
これが正しい、これが正しいと
抑え込もうとするからこそ、おかしなことが乱立されることになっていませんか?
発達障害の女子は性風俗に走るんだってさ!
どこで取られたデータなのか、よく分からないのだけれども、発達障害と認定された女子は、性風俗に走る傾向が多くて、それがよろしくないとかなんとかで自称良識ある大人たちが一生懸命頑張ってるんだってさ。
っていうかさぁ、「性風俗が悪い」っていう認識が生まれたのは、明治以降の日本だっていうことをどれほどの大人が認識しているんだろう。
こういう「子供の発達障害を何とかしなくちゃ!」とか、インテリ染みたことを言う大人に限って、明治以前の日本の良さを全然分かってないまま、江戸以前とかの日本人を完土人扱いしてるけれどさ。
そういう感じがまずもってイラってするんだよね、ここだけの話。
日本だけが2000年を超えた高度な民主主義国家を維持していたことも何も分からず、単なる植え付けられた西欧の間違った性イズムを取り入れて、子供に強要して、さらにそれが守れないと犯罪者扱いなみの、障害者認定をしちゃうってどうなのよ。
西欧主義を取り入れるまでの日本は、性に関してとてもとても寛容で、寛容でありつつも、性犯罪が起きようもない緩やかな国家で、だからこそ、多くの女子たちは、性風俗の仕事を好んで引き受けていたんだよ。
感覚で言えば、ほんの十年くらい前に、子供たちの人気職業が「キャバ嬢」だった時があるでしょう。その感覚の延長線上に近い感覚で、江戸時代の女子たちは好んで性風俗業を生業にしていた人たちは一杯いるんだよね。
気になる人はこれ読んでね↓これ↓
だから、発達障害だからと認定されたから性風俗に走るということは、因果として別次元だとどうしても思うのよ。
江戸時代の庶民の女子の多くは、「性風俗女子いいね!」みたいな感じだったらしいけど、それってみんな発達障害だったからなの?
っていうかさ、江戸時代の女子が発達障害どうのこうのはおいといて、そもそもDNA的なものもあるはずじゃない。
だとしたら、発達障害とは別の因果だよね。
それにね、もっと別の次元の問題があると私は考えてるの。
抱かれる喜びと自己承認
性行為における男性と女性の感覚は随分違うはずだと私は思うの。
男子は大概欲求を満たす喜びに終始するけれど、女子はね、抱かれている時、自分っていう存在が認められている心地よさを感じている事が多いと思うの。
抱かれることによって、満たされるのではなくて、
抱かれることによって、存在価値を認識できる感覚が研ぎ澄まされるところがあると思うのね。
私はずっと、この問題(発達障害の女子が性風俗に走る)っていう事に関して、人知れず、ずっと考えてきたけれど、
発達障害と勝手に認定されてしまった女子たちが風俗から抜けられなくなる理由はこれじゃないかなって思うよ。
性行為によって、自分の存在価値を認識できた喜び
私は学術的な論文の端々から状況を読み取ることしかできないけれど、発達障害の女子と性風俗就業率の因果いうのは、そもそも誰かがその子を「発達障害です」と認定しなければ母数が定まらないはずであって。
そして、そういう認定した数の力学によって数値は編み出されているはずなんだけれども、どうして大人は「発達障害と認定してしまった」事実の不甲斐なさに目がいかないかな?
子供たちは自分が「発達障害」なんて認定されたのなら、そもそもすごく心が傷ついて、自分が普通であり得ることすらできることすらできなくなって、
挙句の果てに誰かに抱かれて、理性の全てを放って密接な体の関係作ってみたら、自分が想像もしないような解放感を得て、それの虜になったからこそ、それを職業にしてしまったとか考えないのかな?
普通の範囲じゃないから、性風俗に走るとか、大人の戯言やめてくれないかな。
自分を等身大で愛してくれる親にも大人にも出会えなかったからこそ、等身大でぶつかれる性風俗こそが居場所になってしまうことをもっと真向からちゃんと向き合えないかな。
問題なのは大人の方でしょ?
どんなに一生懸命この発達障害の話を聞こうとしても、さらに発達障害の事実を広めようとする相手が一生懸命話せば話すほど、この時ほど、相手のエゴを強く強く感じざるを得ない瞬間はないよね。
私は子供を産んだことがないから母親の気持ちは分からないけれど、私の前でめいっぱい自己肯定をしようとしている母親の気持ちには反吐がいつもでる。
「自分は悪くない、子供が発達障害なの」的な……。
私の同級生の子供にも、障害児はいる。親戚の子供にも、障害児はいる。
発達障害ではなく、障害を持って生まれてきた子はいる。
そういう友達がどれほど自分を責めて、責めて、責めてもぬぐい切れない気持ちも持ちながらやっぱり自分を責めて、それでも前を向いて明るく生きているかを知っている。
障害児と発達障害児の壁は聞けば聞くほど大きい。
障害児と発達障害児は全く別物で、
さらに発達障害児は、聞けば聞くほど、発達過程の差異の問題をあれこれ大ごとにして、平均に当てはまらなかった子供たちを学術的にきちんとカテゴライズさせることによって、大人のエゴ(平均に満たなかった子供の理由)を満たしているようにしか思えなくて反吐がでる。
だからこそ、本当に発達障害云々であーだこーだ言ってる事はぬるいって思うし、どうにもこうにも、子供をだしにして自己肯定の手段に使っているようにしか思えない。
世の中には、私の言ってるカテゴライズに当てはまらない発達障害を抱えた子供を持つ親はもちろんいるかもしれない。でも本当にいるのかなってくらい見たことがない。
っていうか、最初に言ったけれど、小学生や中学生の頃にどんくさくて勉強についていけない子でも、ちゃんとした大人にみんななれたよ!っていうか、なれるんだからこそ、そんなことに執着している団体が気持ち悪くて気持ち悪くて仕方ない。
だってこれって
今月あなたは3㎝身長が伸びると言われていたけれど、伸びないのはおかしい!発達障害だ!
って言っているのと私は差異ないと思うの。
こんな事書くとさ、人権BBAな女子たちに絡まれそうだけれどさ、だから言いにくかったけれど、私の前にたまたま現れた「発達障害児童の為にうんぬんかんぬん」抜かしてるBBAたちはどれもこれも、子供を否定した上で自己肯定をしようとしているようにしか見えなかったんだよ。見逃せないよ……これはもう……自分がなんと言われようとも。
もちろん話している言葉は、上っ面綺麗で、自分の自己肯定の為にそんなことをしているなんて微塵も思っていない素振りを見せるけれども、言葉と言葉を繋ぎ合わせてみると、自己肯定するための(発達障害児を産んだのは自分のせいじゃない)気持ちばかりが散りばめられている。
子供は大人の鏡じゃないの?
私が「発達障害」に並々ならぬ問題意識を働かせているのは
大人が自分に問題があることを無視して
子供に問題があると
問題のすり替えをしている
と思えて仕方がないからだ。
子供を枠の中に閉じ込める事で
枠に当てはまらない子供を別軸認定することで
自分への問題を放棄しているようにしか思えないんだよね。
子供に問題があると思う時、
本当は自分自身に問題があるんだと思う。
そう思うことは多くの人は辛いはずだから、
別軸で問題をすり替えようとする。
それの最たるものが「発達障害認定」なのだと思う。
自分が完璧でありたい希望の上に、そうでない現実の埋め合わせをするのが「発達障害認定」なのだとしか私は思えない。
発達障害に興味を持っている人
発達障害に関して仕事の分野を広めようとしている人
本当によく考えて。
波動の観点から言って、
これは、本当にこれは、
自分も周りも不幸にする術の全てだよ。
これを正義だと思ったら、
尋常じゃない不幸の嵐が吹き荒れるはずだよ。
実際、この問題に取り組み始めた友達から順に、ヤバい事件に巻き込まれてます。
つまりは順風満帆だった人生が、「発達障害」取り組み始めたことをきっかけに、めっちゃマイナスに戻る事件多発中っていうことです。
だから、気を付けてください。
どうか自分を正しいと思わないで。
子供の正しさを尊重してあげてください。
はじめまして。
1年ほど前からこちらのブログを読ませていただいてます。
きっかけは、子宮系のアンチ記事でした。当時、発達が周りの子と違っている長男の子育てに四苦八苦しているだけでなく、発達障害とやんわり指摘され、親としては否定はしたいというと思いで一杯でした。でも、長男の成長は、発達障害っぽい。どうしたら良いか分からない。そんな中、子宮系の考えに感化してしまいました。これは良い!と思ったのですが、実行したのですが、すればするほど、雁字搦めになり苦しくなっていました。おかしいな、とアンチ記事を探していて、こちらにたどり着きました。ゆりさんのおっしゃっる事が、メチャメチャ腑に落ちてしまい、それから日々読み漁っていまし
た。
当時、この記事も読んでいましたが、発達障害は大人の決めた成長からはみ出した子をカテゴライズした、という考えに賛同出来るような、出来ないような、なんとも言えない気持ちでした。
学校で懇談会があり、先生から長男の事を色々と指摘され、悩みましたが、何だか悩むのも馬鹿らしくなり、長男のありのままを受け止めるように心がけるようにしています。
そんな中、久しぶりにこの記事が読んでみたくなり、目を通すと、あの時とは違い、なんとまぁ、腑に落ちる腑に落ちる(笑)
結局は、自分の狭い了見で長男をカテゴライズしてしまい、自分で自分を苦しめているだけだと気付きました。
こうじゃないとダメ!って決めて生きてると、本当に辛いんですね。
色んなことに気づかせてくださり、ありがとうございます。
ゆりさんのブログ、いつも楽しみにしています。新刊もゆっくりですが、読ませて頂いております。これからもこそっと応援しています!
どうしても、お礼をお伝えしたく、メッセージをお送りしました。長文、乱文失礼致しました。
おはようございます。
いつもお読みくださり、またコメントしてくださりありがとうございます。
すごく嬉しいです。
今の学校の問題は、先生方が学校で規定された規律に子供を合わせようとすることにもあると思います。子供たち1人1人を点で捉えることができず、面で管理しようとするからこそ、様々な問題が起きていると思いますが、いつの間にか学校教育もサービス業となってしまった今、教育の根本から外れ、如何にクレームを出さないようにするかといった、丸腰の体制が常態化してしまい、親も子も、そして学校もみんな無駄なストレスを抱えることに繋がっているのではなかろうかと思います。
またこのような環境は子供たちが通う学校内だけに起こっているのではなく、社会全体が責任回避を求める空気感によって成り立ってしまっていると思うので、それぞれの日常の生き方や物事の捉え方を責任あるものにしていくだけで、変化は起こるだろうと思います。
子供だからこそ興味を持つことや繰り返すことなども受け容れていきたいですよね。子供時代は誰にとっても必ず過去になるものですから。
最後になりましたが、新刊も購入してくださりありがとうございます。
どうぞこれからも宜しくお願い致します☆