4-6.二元論によって積み重ねられる矛盾の宝庫のマインドスイッチ

※こちらは、以前私がアダルトチルドレン(現在の自分の生きづらさが親との関係に起因すると認めた人)の問題に向き合っていた時に書いた内容を掲出しています。できれば最初からお読み頂ければと思います。→0.はじめに

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アダルトチルドレンは国民病?!

第四章 デュープスと二元論とアダルトチルドレン

 

4-6.二元論によって積み重ねられる矛盾の宝庫のマインドスイッチ

私たちの行動は、知らず知らずのうちに共産主義者や社会主義者、そして隣国利権を持ち合わせる人たちが訴え続けてきた情報によって、無自覚に制御されてしまっています。

生きる上で本当に大切なことは、この世の道理を理解することに尽きると私個人は思うのですが、その道理を妨げるかのように、また道理に気がつかせないかのように、様々なマインドスイッチが入れ込まれています。

たとえば、働くということは、本来日本人にとっては喜びなのです。なぜなら、人と言うのは自分以外の存在があって自分を認識することができるからです。

そして、働く事はその認識のための活動の一環とも言えますし、また人に喜ばれるという現象を通して、生きる欲求の一つである「認められる」という感覚を満たすことができます。

しかしながら、共産主義の世界観において働くこととは、「搾取行為を助長する」ものとして捉えられます。金持ちがもっと金持ちになるために、貧乏人から時間や権利を奪う悪の行為ということになっていきます。

そもそもキリスト教は「労働は罪」という概念で成り立っていますから、西洋社会において「搾取」は当り前の考え方なのかもしれません。ただそれは、「労働は罪と思わなければならないほど、搾取概念が徹底している土地柄だったから」とも言えるのでしょうが、その結果、どこの国も国家が長続きしない事態を引き起こしているとも言えるのではないのでしょうか。

一方で我が国は建国以来滅びたことのない国です。私たちの国だけが亡びることなく、歴史を積み重ねてきた背景には、誰もが平等に働く喜びを享受していたから他なりません。にもかかわらず「働くことが喜びである日本人」にこのような思想が入り込んでしまいました。これは大変不幸なことです。なぜなら、互いが協力して働くことで生み出していた喜びは消滅し、多くの人にとって働くことが嫌なことに切り替わってしまうからです。

今や家事や育児ですら、労働として見られています。そしてこの労働は負担であり、つまらないものと言う偏見も加味された上で正当化されています。

生活に密着した必要最低限の行動も労働という価値観を与えられ、しかもその労働は負担でありつまらないものであり、搾取でもあるという思い込みも付加されれば、主婦のストレスは溜まって当然です。

家事や育児は負担ではなく喜びという考え方、それができるのは女性の特権でもあるという見方や考え方だってできるはずなのに、メディアはそのような切り口で情報を展開することはまずないでしょう。しかも「大変な家事を楽にする」、「子育てを簡単にする」というような切り口の方が消費動向は促されやすい側面があるので、広告のキャッチコピー一つとっても、私たちは知らず知らずのうちにこのような考え方を自ら定着させていく方向性に舵をきっています。

すれば、ますます人の心の中に家事や育児も労働であり、また労働とは嫌なものという意識が積み重ねられていきます。

私たちは、こうして本当は楽しいはずの事を面白くないこと面倒くさいこと思うことが当り前となり、日常の身近にある様々なことが面白くないことや面倒くさいことに切り替わるようになってしまいました。

たとえば、近所付き合いなどもその一つ。地域の祭りや学校行事などのイベントもその一つ。会社の慰安旅行などの社外コミュニケーションもその一つ。

人の捉え方・考え方次第で幾らでも楽しく面白くできることでも、面白くない・面倒くさいと考える人の声が正当性を帯びるにつれて、本当に楽しくないことになっていっていき、本来楽しかったはずの事を私たちは自らの選択でどんどん失っていっています。

結局、上下関係を歪んだ形で捉えた共産主義的価値観によって生まれた下部層の卑屈に付き合わされているだけなのですが、そしてその卑屈さが正当化されることによって、そう思うことが常識となり、それがマインドスイッチとして機能してしまっているためにおかしなことがどんどん増えてしまっているのです。

 

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