3-4.共産主義に必要な二元論

※こちらは、以前私がアダルトチルドレン(現在の自分の生きづらさが親との関係に起因すると認めた人)の問題に向き合っていた時に書いた内容を掲出しています。できれば最初からお読み頂ければと思います。→0.はじめに

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アダルトチルドレンは国民病?!

第三章 戦後教育・戦後社会とデュープス

 

3-4.共産主義に必要な二元論

つい最近まで私は、教科書で習う共産党の定義「生産手段や販売方法、利益を平等に分配するなど、すべての人が平等な社会をめざす」を鵜呑みにして生きていました。だからこそ、彼らの思想に革命がセットで必要となることなど気がつかず、彼らの理想は良い物として肯定的な思いを上乗せしてしまっていました。

ただ、そういう人って割合多いのではないのでしょうか。共産党に対してはなんとなく悪いイメージは持っているけれど、具体的に何が悪いのか分からず、語っていることは良く感じてしまうような感覚を持ち合わせている人は結構いるのではないのでしょうか。

では、なぜ、私たちは彼らの思惑の根本を掴めず勘違いしてしまうのでしょうか。

もちろんそれは、学校教育やメディアの訴求によるものもあると思うのですが、根本的には、日本の土地柄が起因しているのではないかと思います。

つまり、日本という国は、共産主義国家にならなくても彼らの理想を達成できる文化と歴史を内包しているのではないかと思います。だからこそ、多くの人は共産主義という言葉の実態が掴みにくくなっているのではないかと思いますし、この思想に対する勘違いも横行してしまうのではないかと思っています。

事実私は、教科書の言葉を鵜呑みにすることで、ものすごく共産主義を勘違いしてしまって生きていました。どのように勘違いしていたのかを少しお話しします。

私が産まれた愛知県豊田市というのは、誰もが知る大企業の城下町です。私が子供の頃は、出会う大人はトヨタ自動車の社員か関連会社の人くらいしかいませんでしたから、今以上にトヨタ職の強い時代でした。そのため、新興住宅地に一戸建てを購入しても、社宅の頃と顔ぶれすら変わらない現象まで生まれます。みんな同じ時期に同じ会社か関連会社に入社しているので、給料だってそんなに変わりません。ですから、中学生になって共産主義を学んだ瞬間から「自分の地域こそが共産主義の模範だ」と思い込んでいました。なぜなら私の産まれた地域は、どこよりも平等で平和に生きているという自負があったからです。

しかし、政治的思想では資本主義と共産主義は真逆の考えとして位置づけられています。ですから、大人になって色々と現実を知っていく過程で、自分の地域のイデオロギー(左右を軸に考える政治思想)は共産主義の真逆に位置していることに気がついて驚きました。

共産主義の考えの中には常に金持ち悪や権力悪というものがつきまとうようで、資本主義のようなしくみでは、金持ちだけが得をして、労働者は搾取されてばかりで疲弊するという考え方になります。

まさか、自分の生まれ育った地域が共産主義者から目の敵にされるような「絶対悪」の存在だとは思いもしなかったので、この事実に気がついた時に私は心の底から驚きました。

共産主義に蔓延る「金持ち悪」の考えは、私が生まれ育った環境をきちんと見て頂ければ間違いだと言うことが分かるはずです。みんなで一つの目標に向かい、そして稼ぎ、稼いだお金は適正に分配してさらに次の目標に向かうことは、資本主義社会でも充分に成立することができる上に、これこそが共産主義社会の理想なのではないのでしょうか。

日本人が平等という概念に嫌悪感を示さず、当たり前の事として受け取ることができるのも、日本の歴史はこのように団体で得た成果を公平に分配するしくみが当り前に成り立っていたからだと思います。

ただし、日本社会の平等は、公平があっての平等です。共産主義が求めるような画一的な平等ではありません。だから、彼らの主張する部分をそれぞれが日本文化に沿った咀嚼をするため、その違いに気がつきにくい側面もあると思います。そのため、彼らの思想の根幹に「革命」が必要なことも意味不明に感じる人も多いでしょう。

一方で共産主義の理想は画一的な平等となりますから、日本社会に当り前にある平等や公平性が見えなくなり、不平等ばかりが目に留まるようになります。そして、「平等じゃないから、平等を作らなくてはならない」という事実誤認をした上での理想だけが作られます。

そして彼らは「平等を犯しているのは権力のせいだ」という盲信も一緒に生まれるので、共産主義の考え方には常に「絶対悪」がつきまといます。そして「絶対悪」を倒すことによって理想に近付くという盲信の中で、自分自身が「絶対善」の存在となっていき、それが革命思想となっていきます。

だからこそ、共産党理論の中では「絶対悪」の存在は欠かすことができません。なぜこれが必要かと言えば、共産主義の考え方自体が穴の多すぎる虚構の思想だからです。「共産主義の理想と現実」の項目で指し示した通り、彼らの理想をその通り実現すると、大変悲惨で困窮極まりない社会体制が出来上がります。穴だらけの思想であるということに気がつかれない為にも必要なのは、「絶対悪」と「絶対善」なのです。どんな虚構の理論であっても、「絶対悪」と「絶対善」という構造がある上では存在することが許されるからです。

共産主義の理想は、今の日本の資本主義社会の中でも充分に実現可能です。しかし、それでは彼らの存在意義は消滅してしまいます。それで困るのは私たちではなく彼らだけなのですが、一度でも自分を「絶対善」として位置づけてしまった人の排他的感情は恐ろしく、どうにかしてでも自分の考えが正しいということを証明しなくては心の収まりがつかない状態におかれます。

大変面倒くさいのですが、日本人は戦前から間違ったイデオロギーを絶対善であるとした彼らの自慰行為に付き合わされているのです。

そして、共産主義を中心とした革命理論にあるのが、目の前にあるものの全否定です。つまり、共産主義の存在意義は日本風土や歴史、道徳観念など全ての要素を「絶対悪」として設定し「絶対善」の自分の立ち位置を確保することです。だからこそ、彼らは二元論の中でしか生きられないのです。

これは彼らの手段に過ぎないのですが、彼らが自分たちを「絶対善」とするがための方便と方策に、多くの国民が知らず知らずのうちに洗脳されてしまった結果、不必要なストレスや劣等感に苛まれ、さらに人間関係のトラブルに悩まされ、素朴な日常の満足が得られない環境が増しているのです。

また、共産主義に染まってしまった人はそれが単なる手段だということを忘れ、絶対善の自分の正義に溺れるようになって、対立構造を作り出し、それを敵視した上で相手を倒すことに恍惚感を覚えるようになっていきますから、問題が解決せず、同じ事をぐるぐると繰り返すばかりになるのです。

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