戦後の日本人が陥って抜けられないのが、二元論である。
それを強固にしていくのが、テレビ番組やクイズなどでお馴染みの〇か✕かで判断する思考法。
これも、戦後ユダヤ人が日本に持ち込んだものだと「日本人に謝りたい―あるユダヤ人の懴悔」には書かれていました。
なぜ二元論は危険なのか。
二元論とはまず何かということで、定義から確認しておきましょう。
Google先生で検索すると最初に出てくるのは、この説明です。
にげんろん【二元論】
二つの異なった原理を立て、それによって(考察範囲の一切を)説明する態度・議論
世の中に潜む二元論は、善と悪などに始まり、「精神と物体」や「生と死」など、どちらの観念も融合して捉える必要性があるものごとに対して、合い寄れない別の観念として思考を作り上げていく考え方です。
企業においては、経営者と雇用者(労働者)の二元論の思想が強くなればなるほど、経営者と雇用者の対立は激化していきますよね。
政治思想においても、資本主義と社会主義の対立のように、どちらか一つの考えだけを尊重するのではなく、上手く融合していく必要性があるようなことも、人々の考えが二元論に陥れば陥る程、対立が激化し、物事は丸く収まらなくなっていきます。
二元論の考え方が強化されやすい〇✕式思考の最たる問題点は、「どちらも正しい」や「どちらも正しくない」といった判断ではなく、必ずどちらかが正しいという判断を生み出すことです。
「日本人に謝りたい―あるユダヤ人の懴悔」では、〇✕式思考についてこのように書かれています。
〇✕式思考法はユダヤ人がつくった。
さて、ここからはユダヤ人によって人為的に持ち込まれたものである。
戦後教育界に最初に持ち込まれたものに、〇✕式思考法がある。この思考法も見て分かる通り、二元論の典型的なものである。これを最初に社会に持ち込んだのはルーズベルト政府、つまり、ニューディーラーである。一九四一年、アメリカが第二次世界大戦に突入した結果、国家総動員ともいうべき戦時体制に飛び込んだのをチャンスに、ルーズベルトはまず教育界というより一般産業界に持ち込んだのであった。
産業界では、戦時体制生産のため労働力の飛躍的増強が要求された。そこで大量の労働者、技術者の募集が始まった。その際これらの労働者、技術者その他の採用試験には従来の如き主観に基づく要素の多い問題形式では間尺に合わない。採点作業のスピード化のために、思い切った客観法に基づく採点方法が焦眉の急であるというのが、この〇✕式を持ち出すときの理由づけであった。
教育界へ本格的に持ち込まれたのは、日本が最初である。戦後の日本の教育界にとっては、アメリカの産業界の緊急動員体制時の如き採点のスピード化といったことは、理由にならないはずである。そこでつけた理由が、主観主義の排除ということであった。つまり、科学的、客観的ということである。しかし、その裏に創造的能力を奪うという大きな問題点を含んでいることは、何故か表面には出なかった。この点は、最近のアメリカ教育界で大問題になりつつある。アメリカの教育界でも、この〇✕式試験が大手を振ってまかり通っているのである。
日本でも戦後一時期、大学受験生に進学適性検査、通称進適といわれるものを実施していたが、現在のアメリカでは「全米共通進学適性試験」=SATといわれるものが一九四七年から実施されている。この〇✕式を標準化テストと称している。そして全米共通という標準性と比較の単純性、能力の客観的評価の正確性に秀でていると理由づけられている。
これに対してこの〇✕式に批判な人々は、創造的才能を持つ者に不利だと急所をついている。五つの答えの中から選ぶとすれば確率は既に五分の一であり、目をつぶってやっても五問に一問は当たる。これを科学的というのだろうか。さらに問題は、設定された答えの中からしか答えを出せない事である。そこに設定されたものがすべてと考えることは創造的才能をもつものにとってはこの上なくつらいことである。
また、これだけの手段で人間の本来の才能、判断力、リーダーシップ、組織力、表現力、意思の強靭性等が正確にはじきだされると信じることができようか。
日本においては、戦後の思想界に支配的に君臨したマルクス主義の影響もあり、この思考パターンにすっかりとりこにされてしまっているのが現状であろう。
GHQを支配していたニューディーラーはいろいろな二元論的思考を戦後の日本へ植え付けたのであるが、教育界へ持ち込まれたこの〇✕式思考法により育てられた現在の中堅クラス以下の多くは社会、政治、経済その他あらゆる面でこの〇✕式教育を忠実に反映した思考法によって諸現象を分析することにすっかり慣れているようである。
「保守」か「革新」か、「大企業」か「国民大衆」か、「戦争」か「平和」か、「経済成長」か「社会福祉」か等、二元論花ざかりである。これらを持ち出しているのが共産党、社会党といったマルクス主義を絶対的な世界観、あるいはそれに類する思考をする政党であるからには当然というべきかも知れない。何故なら、後で説明する如く、マルクス主義は二元論から成り立っている虚構論理なのである。この〇✕式思考法なくしては、「革新」政党たるもの、今日まで生きのびることは不可能であったかも知れない。
二元論の問題は、選択肢の中でしか思考をさせない制約を作ることだけでなく、どちらかの選択にしか、幸福を見いだせないなどの錯覚を人に与えるところにあります。
どちらかの選択にしか、幸福を見いだせないのであれば、幸せの範囲は狭まれることになります。
どちらかの選択に「正」を見出すのであれば、それ以外は「不正」となってしまいます。
だから、問題が解決されることがなく、対立を呼び起こすばかりになっていくのです。
これが、二元論で統制してきたこの支配世界の特徴なのです。
また、二元論で思考することに慣れている人は、情報を面で受け取る癖がついています。
面で受け取るというのは、信用できる情報を丸々鵜呑みにすることを意味します(私用語です)。
本来であれば、主張する人の背景にあることやものを考えた上で、共感できる部分と共感できない部分を判断しながら租借し、自分の考えを作っていくべきなのですが、
常に正しいか正しくないかの判断で生きることを余儀なくされた私たちは、このような細かいことは端折って、自分の意見に近い人が正しいということで鵜呑みにしてしまいやすい思考性が息づいています。
だからなのだと思うのですが、信じている間は相手の全てを善とするのに、信じられなくなった瞬間から、相手の全てを悪とする人が多いように思います。
相手の持ち場立場や役割、そして思考性の元にある背景を理解した上で付き合えばこのような事にはならないのに、〇✕よろしくな感じで、全てを端的に判断する癖がついているからこそ、極端な思考性と判断の連続が生まれやすくなっていると言えます。
情報を点で捉える癖をつけていくことが、二元論の思考性から離れることに繋がっていきますが、これが現代人にはなかなか難しいのです。
また、二元論の思考性には、自分は正しく相手は間違っているという思いの強化に繋がっていくため、自分の考えが正しいと思う気持ちが高まれば高まる程、自身が気が付かないうちに排他主義を形成していく側面があります。
なぜなら、二元論の思考性というのは自分の意見と違う相手の発言の根本的理由を推察する間もなく、ただ単純に否定されたという思いだけで、相手に怒りを生じやすいからです。
「なぜ?」を冷静に考えれば、それは視点の違いから生まれるものであることが容易に理解できるのに、二元論に慣れてくると、それができなくなります。
そして本質的な議論から遠ざかることになっていきます。
本質的な議論に必要なのは、全く違うように見える意見をすり合わせて立体化していくことです。
二元論に陥ると、短絡的な思考によってこの行為ができなくなり、単なる対立に繋がっていきやすいのです。
アダルトチルドレンの問題が解決しにくいのも、二元論の考えが浸透していることと親子という深い因縁がある関係値から、取り返しのつかない対立に繋がりやすくなっているのだろうと思います。
ちなみに、二元論という考え方を持った私たちが過去の日本を眺める時にこそ、私たちの思考を取り外してみることが第一だろうなと思いました。
だって、二元論が埋め込まれたのは、戦後教育によってなのですから。
この判断の中で、戦前を見ると、間違った解釈を色々としそうで、これまた危険だなぁと思ってます。
とはいえ、ここで二元論は虚構の理論を成り立たせるための方策であることが分かったのですから、私たちは自己努力で、この二元論から脱出していきましょう!
追記
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