この記事は2018年10月27日に書いたものですが、即位の礼だからこそ今一度多くの人に読んでほしいなと思ったので、更新日を令和元年10月22日に改めて掲載し直させて頂きます。
国家も国体も国益も国旗も国歌も国史も国士も、国が付く言葉が悉く否定されてしまった戦後日本。
すっかり国というものが何なのか分からなくなってしまった国民たちは、勘違いした自由を求めるようになりました。
搾取という概念がなかったはずの日本
戦前までの日本は、それぞれの「役割を全うすること」が軸となって社会ができる、循環型社会であったはずだと、著書などを通してお伝えさせ続けて頂いております。
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それぞれの役目を全うすることで循環する食物連鎖のように、日本の社会は持ち場立場を全うすることで生まれる循環型社会を実現してきました。
それは、君主でおられる立場の皇室にあられても同じこと。
皇室は皇室の役目を、武家は武家の役目を、百姓は百姓の役目をと、与えられた持ち場立場の役割を認識し真っ当することで、我が国は、他国が真似したくても真似できないほどの穏やかで平和で、笑顔の絶えない日常が与えられていました。
ですが、この循環型の思想が間違っていて、ピラミッド型の搾取世界が善であると、戦後と同時に日本人は植え付けられることになります。
上に登れば、自由で開かれた社会にありつけるものと思い込み、循環型だったはずの日本も、あっという間に弱肉強食の世界に飲み込まれることになりました。
これは虚像の社会です。上に登って幸せになるはずなどありません。
上には制限と責任を、下には自由があったかつての日本
アダルトチルドレンの問題にのめり込むようになって、改めて戦後と戦前とで「何が違うのか」を考えなおそうと思い、江戸時代や平安時代の事が書かれた文献を読みふけっていました。
そこにははっきりと書かれていました。
上流階級と下流階級にあるものの違いが。
それは現代人が考えるものとは真逆のものでした。
上流階級は、贅沢な暮らしと引き換えに、様々な制約がありました。結婚も恋愛にも制約が付きまとい、家督を継ぎ、お家を繁栄させることが無条件に与えられるだけでなく、管轄域における住民の暮らしを守る責任を与えられていました。庶民から見れば、贅沢と言えど、その贅沢は多くを守るためにあるものであり、食事に至っては、概ね庶民と変わらない生活を上流階級もしていました。
一方、庶民たちには、上流階級と比べ圧倒的な自由が与えられていました。庶民としての生活レベルの制限はあったものの、結婚も恋愛も自由なことはもちろん、制約など無いに等しいと言えるものでした。
特に江戸時代の庶民の女性たちには、男性と比べて職業選択の自由が広く与えられていました。庶民であっても力量さえあれば、お城勤めができる特権は女性だけに与えられていたものです。ですから、封建社会と言えど、女性には様々なチャンスが与えられていたのが、江戸の実情だったのです。
ですが今は、上流階級になることでしか、自由を謳歌できないという発想が大きく広がり、上に上った奴が勝ちという風潮が蔓延しています。そして、上流階級が責任と制限を放棄して、勝って自由気ままに下部をコントロールするという、今までの日本の歴史にはなかった搾取社会がどんどん実現してしまっています。
ですから、庶民の多くは上流階級に敵意を示し、また上流階級は自分の利権を守るために策を講じるという、不必要な問題が生まれるようになってしまいました。
君民共治は、民主主義より高度な社会です。
ここ数日何度もご紹介している「日本人に謝りたい―あるユダヤ人の懴悔」にはこんな一文もありました。
日本民族のもつ最大の財産は天皇制である。これは全く世界に類例のない偉大なものであり、人類の理想とするものである。
かつてユダヤ人の大思想家でフランス革命に大きな思想的影響を与えたジャン・ジャック・ルソーは、かの有名な『社会契約論』で次の如きことをいっている。
「人もし随意に祖国を選べというなら、君主と人民の間に利害関係の対立のない国を選ぶ。自分は君民共治を理想とするが、そのようなものが地上に存在するはずもないだろう。したがって自分は止むを得ず民主主義を選ぶのである。」
ここでいう君民共治というのは、君主が決して国民大衆に対して搾取者の位置にあることなく、したがって国民大衆も君主から搾取されることのない政治体制のことである。
ところがここで驚いたのは、日本人にこの話をするとみな不思議そうな顔でキョトンとする。私は最初その意味が全くわからなかった。しかし、だんだんその意味がわかってきた。日本の天皇制にはそのような搾取者と被搾取者の関係が存在しない、ということを私が知らされたからである。今度は私の方が驚かされた。
日本人のためにちょっと説明しておくと、欧州でも、また最近追放されたイランの王室でも、君主はみな国民大衆に対しては搾取者の地位にあるものである。したがって、亡命するときは財産を持って高飛びする。これが常識である。だが、日本人の知っている限り、このようなことは君主制というものの概念の中には全く存在しないのである。
しかるに、ユダヤ人ルソーの思想は搾取、被搾取の関係にない君主制を求めているわけである。これは確かに理想である。しかし残念ながら、ルソーはそのようなものが実在できるはずもないからやむを得ず、民主主義を選ぶというものである。
私がルソーの時代に生きていたならば、ルソーにこういったであろう。「直ちに書きかけの社会契約論など破り捨て、速やかに東洋の偉大な君主国へ馳せ参ぜよ」と。
ここで非常に重要なことをルソーはいっているのである。今日本で絶対の善玉の神として一切の批判をタブー化されている民主主義というものは、ルソーによれば君民共治の代替物にすぎないということである。私が日本人を最高に尊敬するようになったのも、この天皇制というものの比類ない本質を知ったからである。
日本では戦前、比類なき国体という言葉があった。またポツダム宣言受諾の際にも、この国体の護持という点が一番問題になったのである。これは真に賢明なことであった。
この日本の天皇制はユダヤ思想の理想であったことはルソーの言葉でもわかるが、他にもあるユダヤ人の言った言葉に次のようなものがある。
「わがユダヤの王は、目に見えない護衛だけで守られる。われらの王は威厳にみちてその権力を行使するのは人民の幸福のためにだけであり、決して王自身や王朝一族のためにこれを用うることはない。かくして王への尊敬と威厳はいやが上にも高まり、人民に崇拝され敬愛されるのである。そのため王は神格化されるだろうが、それはひとえに王の権威が人民に安らぎと幸福を保証するコーディネーターの役を果たすからに他ならない。」
断っておくが、これは日本の天皇制の描写ではない。ユダヤ民族の理想の表現なのである。これを見てもおわかりと思うが、ユダヤ人はルソーのいった如く、国民との利害関係をもたない君主が理想なのである。
私が日本の天皇制の本質を知ったときの驚きが如何なるものであったかは、推して知られたい。地球上にユダヤ民族の理想が実在したのである。一般のヨーロッパ人は、とてもこのようなすばらしいものを創ることはできないであろう。我々ユダヤ民族も残念ながら未だ創ってはいないのであるが、しかしそれがすばらしい理想であるということを知っているだけでも日本人に近く、ヨーロッパ人よりも優れていることを日本人に認めていただければ無上の光栄である。
一般にユダヤ人が天皇制の類い稀な点を発見したのは、戦後の天皇とマッカーサーの会見の時であった。かといって、ユダヤ人全部が知ったわけではない。今日本で勝手気ままにペンを走らせている若僧たちはもとより、こんなところまで知っているわけではない。
色々調べてたら、全文ではないけれど「日本人に謝りたい―あるユダヤ人の懴悔」の要所となる原文を掲出してくれているサイトを見つけました。
日本人に謝りたい ① 戦前の日本に体現されていたユダヤの理想
良かったら、ぜひここから原文に触れてみてください。
私たちは、民主主義よりも高度な社会体系で生きていたのに、それが愚だと刷り込まれた上で、民主主義こそが素晴らしいと思い込まされました。そして、間違った方向で模索して苦しんでいます。
民主主義よりももっと高度な社会体系に戻れる日はいつのことでしょうか。
もう難しいのでしょうか。
そんな事を思い悩むと苦しくなりますが、一人一人が与えられた役目を全うしようという心持を持つことで、その回転は少しずつ動き出すのではないかという期待を今私はしています。
追記
日本人に謝りたいは復刻版で再販されるようになりました。
まだお読みでない方是非お読みください。
日本人の悩みの本質が分かるようになるはずです。
さらに追記
即位の礼に合わせて書いた記事が他にもありますので、お時間許しましたら是非お読みくださいませ。
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今日のリンク集
日本人に謝りたい―あるユダヤ人の懴悔日本人に謝りたい ① 戦前の日本に体現されていたユダヤの理想
>一人一人が与えられた役目を全うしようという心持を持つことで、その回転は少しずつ動き出すのではないかという期待を今私はしています。
僕が代表をしている組織では、どこも「自立」ということをメインテーマにしています。
それは、自立していない各個人が「協力」という名前のもとで、実はもたれ合い・責任の押し付け合いになっても、組織としては各個人の能力を活かすことができず、自立した個人が協力しあってこそ、1+1が3にも4にもなると考えているからです。
国も一緒ですよね。
国民一人ひとりが自立してこそ国が成り立つのであって、国民が国の礎であることは間違いないのですが、なぜか国を大切にしない人に限って、国に依存しようとしますよね。(会社でも同じなんですけど)
ちなみに、自由と平等が並列に語られることが多くなったのは、多分、フランス革命のあたりからかなと思います(違ったらスミマセン)。
それらを並列に語ることに対する矛盾は、いろいろなところで語られていますが、個人的には、矛盾せずに共存できる可能性もあるとは思っています。ただし、そこでは「平等」という言葉の意味をきちんと考える必要はあって、元々は個人の存在価値や機会に対する平等だったはずなのに、いつの間にか「結果平等」というような歪んだ考え方が蔓延ってしまったのが今の社会のような気がします。
そうです。自由と平等が並列に語られるようになったのは、フランス革命からなはずです。
そして、残念なことに、フランス革命を裏で主導していたのは、ユダヤ人だったと、この著書では語られています。
平等という名のもとに起きる不具合の連鎖にいつ日本人は気が付いてくれるのでしょうか。
各々が己に与えられた役目を全うするだけで手に入る自由には、平等など与えられるはずもないことにいつ気が付いてくれるのでしょうか。
結構あの本を読んだ衝撃が大きすぎて、執筆前に伝えたいことばかりが増えています。
昭和より前の時代、
農民による一揆(どんな内容であれ首謀者は死刑とか)、
天下統一のための戦いとか(合戦とか切腹しすぎでは?)、
江戸時代よりあとの農村から女性がお金のために買われてきたとか(女性が物扱い)、
ということもありました。
生まれる時代が違えば私ももしかしたら、と考えてしまいます。
もし、お考えになってたら教えてください。
これらは君民共治別にせいではなく、天候や治水等が技術的に無理だったからまたは、彼らの努力不足で(依存しあってる?)仕方がないとかでしょうか。
または、他の国はもっとひどかったから日本はマシなんでしょうか?
暗い部分というのは、すばらしい所よりも印象が強すぎます。。。
お返事遅くなってしまってごめんなさい。
太田さんが思われているように、以前の私も思っていました。
しかし、きちんと調べなおしたら、私たちに戦前の時代に嫌悪感を抱かせるように教科書が作られていたり歴史を教えられていることに気が付きました。
具体的にどこかどうおかしいのかというのは、説明が長くなるので、折を見て、このことを記事にしますね。
それではこれjからも宜しくお願い致します。
蝶は蝶として成体になる前に蛹になり 一度幼虫の体を自ら壊すそうです。ですので、蛹のあの硬い殻の中はグチャグチャの液体なのだそうです。それを知った時、「生き物スゲー!」って感動しました。
まぁ、昔に得た知識なんで「そうじゃないよー」って事になると思いますが…
なにを言いたいのかと言いますと、今はまだ世の中は蛹の状態なのではないのでしょうか?上記の説が本当だと仮定すると、あの硬い蛹の殻は外見では変化は全く見られませんが、殻の内部は成体になるべく目まぐるしく細胞が動いている。蛹の硬い殻は破れるかどうかなんて中の蝶にはわからないけど、蝶として外に出ようと頑張ってるんですよね。それを考えると「生き物って凄いなー」って感動します。
失礼な言い方ですが、地球も世の中も「生物」と考えると今は蛹のなんじゃないでしょうか。しかも外に飛び出そうとがんばって殻が割れている状態の。
私は 竹久さんとそう大して年は変わらないですが、深い知識も経験も正直かないません。ましては気の利いた言葉は紡げませんが、でももし、世界や世の中が蝶のように変わる瞬間を生きられるなら、それはとても「幸福な時代」に生まれたんだなぁって思ってます。
長文失礼致しました。
お返事おそくなってしまってごめんなさい。
コメントを頂くまで、蛹の中がぐちゃぐちゃの液体だなんて知らなかったので、私も調べてみました。
https://matome.naver.jp/odai/2138613312614152201
https://uranaru.jp/topic/1019463
神経系の組織だけ残してドロドロの液体になってから体を構成し直すって書いてあって、めちゃくちゃびっくりしました。
そう言われてみると、確かに地球全体の変容は蛹の状態とも言えますよね。
変容の時代は、今までとは全く違う世界が現れていくからこそ苦労が伴いますが、新しい世界を生きる楽しみがありますよね。
新しい視野を提供してくださり、ありがとうございます。
どうぞこれからも宜しくお願い致します。
生きていく限り誰もが摂理の中にいます。その設立から外れようとするから、死を恐怖するのかもしれしれません。
情報を無理矢理統制しようとも、其れは花粉を受粉するハチを叩き落としているだけ。受粉する方法は風にのったり、雨に任せたり様々です。例え 自然を遮断しようとも、ソメイヨシノは遺伝子レベルで開花を促します。
そして、天然痘を克服するなら牛痘を摂種させてました。
一見 なんの関係の無い事柄ですが、ご興味があることをあてはめると 希望が湧いてきませんか?
私は戦後 70年弱は全く無駄だとおもいません。だって日本人は竹のような精神力を持っているんですもの。立ち上がり方を覚えれば良いだけだと思います。
励ましの言葉ありがとうございます。
仰る通りで、どんな情報も本能には勝てないと思います。
そして日本人なら、その間違いに気がついた時の修正は早いと思います。
竹のような精神力、みんなで思い出していきたいです。
にょこにょこと一気に生え始めてみんなで竹林になっていきたいですね!
竹久さん こんにちは。
私も竹久さん同様、歴史の真実を知るたびに心が重くなり苦しくなったことがあります。脳内お花畑?の人がうらやましく思ったこともあります。
正しい歴史も知らず自虐史観に染まっていたころは、どこか罪悪感を感じて生きてました。特に政治は<弱腰外交>でしたから、GHQの思惑通り、「日本は悪いことをして戦争し原爆を落とされた」とばかり思っていました。洗脳から目覚めたのは5年程前になります。私個人としては、東京裁判・朝鮮進駐軍の悪行を知ってもらいたいです。
5年前より大分目覚める方が増え、時代はまさに激動ですね。
これからは痛みが伴うでしょうが、明るい未来がまってますからね。
それと、日本人男性はYAPマイナス遺伝子をもっている人が他国より多いんですよ。頼もしいですね!(^^)!
えく子さんが仰る通り、5年前くらいと比べると、日本人は急激に目覚めていますよね。
事実を知るのも、知らないのもどちらも苦しみが伴うけれど、知った上で歩むと少しずつ違ってきます。
後は、感情的にならないで、どれだけ日本人が粛々と冷静に対処できるかにかかっているのかなと思いつつも……この記事を書いた時みたいに、やっぱりたまに心が重く苦しくなることがありますよ( ;∀;)
それでも、気が付いてくれて、自分を変えようとする人も増えてきていますよね。
YAPマイナス遺伝子の事は良く分かってなかったので、今調べたら、希望が持てました。
目覚めたらきっと、YAPマイナス遺伝子が目覚めたらきっと、「自分を投げ捨てて人に尽くすことができる」本来あるべき日本人らしさに戻りやすいのだと思います。
これが日本人にとって最たる幸福感であることに、多くの人が実感伴うようになったらいいなって思ってます。
それではこれからも宜しくお願い致します。
こんにちは。
最近ブログを拝見するようになった者です。
過去記事を遡り学ばせて頂いています。
質問です。
食物連鎖(循環型)の図の中に人間を配置するとしたらどこになるのでしょうか。
人間は動植物を食べますが、食べたのち自然のために何か還元できているのでしょうか。
私にはいまいち還元できているのかわかりません。その場合自然の中における人間の存在意義はあるのかと不思議に思った次第です。
よろしくお願い致します。
こんにちは。
私たちは肉食動物と同じ立ち位置になると思います。
今は火葬が主流でありますが、土に埋めれば土に還りますよね。
これが循環の基礎的な概念です。
また食物連鎖の考え方は例として、実社会に合わせて見て頂けたらと思ってます。
それぞれが役割を持ち、その役割を全うすることで誰かのためになって、循環の連鎖ができていきます。
今まで意識していなかったこともこれから意識するようになって見えてくる世界もあるのではないかと思ってます。
それではこれからも宜しくお願い致します。
ご返信ありがとうございます。
納得しました。
こらからも学ばせて頂きます。
どういたしまして。
こちらこそ、これからも宜しくお願い致します。