どんな意見も万遍なく聞きましょうという、日本人の優しさというか心遣いは、ある一定の層に対しては不要でしょ?
左派の「多様性」ほど矛盾した言葉は無い。
全体主義を模索する左派たちは、自分たちの意見が通らないとなると
「意見の多様性が必要」
と言い張るのは定例ですよね。
一方で自分たちの意見が通ったときは
「市民の声が反映された」歓喜の渦に酔いしれます。
この四ヶ月、アダルトチルドレンという軸から、まさかの共産主義&左派の考えを深く考察する時間を経て、彼らがなぜこのような当り前に矛盾した行為を日常的に行ってしまうのかが、手に取るように分かってきたのですが、
彼らというのは、「彼らが理想とする世界」意外の言論も現実も許してならないものという風な解釈になるみたいなんです。
そもそもマルクス・レーニン主義(現在に残る共産主義)は、世界が共産主義になってこそ平和であり、その平和を達成するためなら何でもありの思想なので、彼らは「平和」を合い言葉にしながら常に好戦的なのです。
一般的な人間の解釈であれば、「戦争などがなく安穏とした状態」=「平和」となりますが、彼らの平和は違うのです。
「共産主義社会なっていない社会は平和ではない」という考えが根底にあるから、「平和を合い言葉に戦う」のです。
つまり、自分たちの考え意外のものは「全て悪」という、まさにカルト宗教化した政治団体だったりするのでややこしいのです。そして、付き合う必要性のない世界観に彼らは存在しています。
1つの答えしか存在が許されないというのは、多様性とは真逆の考えであり、さらにそのような世界観は宗教であると割り切った方がいいのですが、政治とかいう現実的な思想の分野だと、その解釈が曖昧となり、また彼らの意見を聞く必要性があるような風潮も日本には強く残ります。
しかし、多様性を重んじるのであればあるほど、「1つの答えしか存在が許されない」と考える彼らのような極端な思考性の人の思いは、個人個人が排除していく思考性を身につけた方が良いのではないかと思います。
弾圧するのではなく、無視すれば良い。
あまりにも過激な言動を繰り返す人たちは、法に従って適切な処置をするべきだと思います。
彼らは捕まるたびに、「不法逮捕だ」と騒ぎ立てますが、
辺野古の現場では左派活動家たちが道路を占有して私的検問をする始末。
『どうか大拡散してください! これが沖縄名護市辺野古で行われている 過激派による違法検問に抗議する一般県民の声です!』
さらに基地拡張賛成派の人たちに対する嫌がらせも日常茶飯事。
もちろん彼らのやっていることは違法行為です。ですから、捕まって当然のことを繰り返しているのに、彼らの理解の中では「逮捕する警察が悪」という認識にすり変わります。
山城博治被告の暴行動画にNGOあきれ顔 失笑モノだった国連イベントでの沖縄基地移設反対派リーダー演説
日本は法治国家なのですから、そもそも法を無視して自分勝手に行動して、それを正義だと言うような人の意見を聞く必要などないと思います。
そんなことをしたら秩序が乱れるだけです。
しかしながら、左派の言動に押されっぱなしだったこの70年間は、ついつい私たちは彼らの言葉に耳を傾けて、そういう意見を受け取ることも「多様性の1つ」と思わされていました。
ですが、彼らが「多様性」という聞こえの良い言葉と引き替えに求めているのは単なる「全体主義の実現」なんですよね。
彼らの意見を聞くたびに、本来在るべき「多様性」から遠ざかることはあからさまなのですから、もう聞く必要はないと思うのです。
ただ、むやみやたらに弾圧する必要性もないと思います。
なぜなら、彼らは法治国家の法律に則って、適切な裁きを受ければ、誰もが普通の生活はできないだろうと思うからです。
そのような状況になっていくためにも、それぞれが彼らの意見に聞く耳を持たない毅然さが必要だろうなと思ってます。
本来世の中にのさばっている事の方がおかしな活動家たちが自由気ままに活動できているのは、そこにはそれを許す民意があるからだろうと私は思ってます。
民意が彼らの行動に対して拒絶を示せば示すほど、彼らの活動範囲は当り前に狭まり、また警察の取締も機能しやすくなるでしょう。
その環境保持をするために必要なのは、彼らに同情しない民意です。また彼らが捕まった時に、警察の行いを賞賛できる民意だと思います。
彼らがのさばる環境が減れば減るほど、日本は「多様性の論議」が充実した形でできるだろうと予測します。
そのような現実を手に入れるために、全体主義実現のために多様性を連呼する左派活動家や政治家たちの意見をスルーできる教養を身につけていきたいですね。
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こんにちわ、
この度の内容も 多種面において とても参考になります。
先日の話を思い出したのですが
知人との会話の中で 知人の友が乳がんで他界したという話になりました。
その亡くなられた友が 熱心なキリスト教の信者だったそうなのです。
学生の頃は そういったこともなく いたって普通に仲がよかったのだそうです。
大人になって 何かのきっかけから、信仰深くなりはじめ
そこから
知人のプライベートや仕事中関係なく 勧誘にやってくるようになり
困惑して ちょっとしたくち喧嘩になり
距離を置いた矢先に 訃報を聞いたそうなのです。
その友人が亡くなる前に 知人に手紙を書いていたらしく 開けてみると
やはり 宗教の勧誘のことしか 書いてなくて 正直がっかりしたと
言っていました。
知人曰く
「彼女は 信心深く キリストに入れば天国に召されると信じて幸せだったかもしれない。
でもわたしは キリストを信じないと天国に行けないとは思っていない。」
と言っていました。
わたしも 知人の言葉を尊重します。
西洋は一神教で他の神を神と認めない教えですが
ここは 日本。
日本は 多神教であり 信仰の自由というのがあって、沢山の宗教があります。
宗教を 必要とするひとも いますが
宗教を 必要としないひとも いるのです。
巷のスピリチュアルでも 半島でも
どうか自分たちを理解してほしい、とか
私たちのことを認めてほしい と アピールしてきますが
根本的な相違、
理解しあえないもの 納得できないものは
どうやったって 歩み寄れないものなのです。
だから 距離を置くしかない という結果になるわけです。
彼や彼女たちが 求めたそれが どんな形であれ信仰とするなら
それはそれで 彼ら彼女らにとっては幸せなことであると思います。
苦しみにもがいた中に 一筋の光をそこに見出せるなら
それでよかったのでしょうと・・・。
でも 反対岸にいるわたしから見れば
距離を置いて 正解。
あなた方のいう理屈や教義が 自分にわからなくても全然大丈夫。
そのほうが十分幸せなんですよ。
という感想なのです。
こんにちは。
一つの考えに執着される方は、自分の意見を認めてもらうことが「多様性の尊重」ということに繋がりやすいです。
なぜなら、一つの考え方に執着される方は、そもそも周りの意見を聞いてないので議論から排除されやすいんですよね。
だから、認められていないと感じる環境が増えていき、マイノリティという意識が強くなっていきます。そして自分がマイノリティだと思っているから、自分を認めされることが多様性の尊重みたいな考え方になりがちなんだろうなと思ってますが……迷惑な話ですよね。
自分の意見と同じくらい相手の意見も大事なものだと考えている人との間ではこのような軋轢は起きないのに、一つの意見に執着していく人ほど、実は自分以外の人の意見を軽視しているのですが……そこに気がついていないんですよね。
そういう方とは距離を取るしかないから生まれている現実の理由をきちんと受け止められないから起こるスパイラルですが、やっぱりほっておくしかないですよね。
とにかく融合しない別の世界を創っていく必要性をより強く感じるようになりました。
だって日本は八百万の世界観ですものね。
それではこれからも宜しくお願い致します。
「多様性」という言葉で忘れられないのは、公立小学校に通う息子が、ある子より上靴隠しや汚しから叩く蹴るなどの行為を受けていた時、教頭が善悪の判断が出来ず、「愚息にも問題ある」と、事をうやむやにし、「今は多様性のある時代ですから」とのたまわったことです。
いやいや、もちろん我が子の言うことを鵜呑みになどしていませんが、暴力はダメだろう。悪いことは悪いと言えないのか?学校に秩序はないのか?
と絶望しました。
公立小学校ではこれが浸透してます。喧嘩ではなく、一方的にやられた場合にも、なぜか”喧嘩両成敗”になります。「お互いごめんなさいしようね」って。
>彼らが「多様性」という聞こえの良い言葉と引き替えに求めているのは単なる「全体主義の実現」
まさにその言葉通りのことが公立小学校の現場で起きてますね。
ちなみにその子は、未だに弱い子(仕返ししなさそうな子)をターゲットに悪事を働いているようです。
町田市の四年生が虐待により亡くなった事件で、教育委員会がアンケートを実父に渡したことを見て、教育委員会の人間で誰ひとりとして”それはダメだろう”と言わなかったのか?ということが悲しく思いました。
もちろん変な保護者も増え、(それこそ被害者面を武器に無茶苦茶な要求をするような)先生も大変でしたでしょう。
あの時教頭の言葉に、疑問を抱きつつも毅然と言い返せなかった自分が悔しいと思いますが、
教育界でも、よき波動の変化が起きてくれることを願います。
おはようございます。
歯がゆい思いをされたことが非常によく伝わってきました。」
戦後の日本社会はとにかく自己保身のための事なかれ主義が蔓延していて、おかしなことになってると思います。
先生が体を張って自己責任を取る姿を見せなければ、子供たちはそれを学ぶ機会がないのに、「どんなに問題があっても、そこに問題はなかったようにみせる」ことに執着しているからいろいろなことがおかしくなっているのだと思います。
気概のない人に何を言っても暖簾に腕押しになってしまいますが、こういうタイプは風見鶏なので、世の中の雰囲気が変わっていくことで自分もそれに合わせなきゃという風になっていくと思います。
まずは、私たちの生活それぞれの波動を整えていき、社会が変化していくことを望みたいですね。
ゆりこさん、真心のあるお返事をありがとうございます。
そうですね。”風見鶏”という表現があのような方々を言い当てていて、心が楽になりました。
ここからはスルーしてくださいね。
私も友人を亡くしました。私より少し年上で姉御肌の明るく優しい人でした。まさか自ら旅立ってしまうと思ってもいなかったため、自分を責めたり信じられなかったりと辛い時期を過ごしました。
時が流れた今でも折に触れ、心の中で彼女に話しかけています。彼女に会えなくなってしまったけれど、いつまでも彼女は私の大切な友人です。
私は彼女より年上になりました。私もまた笑って会おうと思っています。
どう致しまして。これからも宜しくお願い致します。