ようやくいろんな仕事が片付いて、そして、気持ち的にようやく落ち着いたので(・´ω`・)
今日は、今読みたいと思っている本を焦る気持ちを持つことなく、のんびりと堪能できました。
そしたら、また思うことが出てきました。
結局、みんな同じ答えに辿り着く。
以前突然「循環と腐敗」という関係に興味を持った時に、読者の方が教えてくれた言葉を頼りに、幾つかの本を急いで図書館から借りてきました。
今日読んだ本はその時には借りれなかったんだけれども、図書館で予約待ちして数日前に手元に届いた本です。
これです↓
田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」まさかのマルクスから資本主義経済を見つめる話から、菌の話に移って、経済とは何かを考える話に変化していくとは思わなかったけれど、面白かったというか、私があの時にうっすらと感じていた循環と経済と人間の関係みたいなものが、「菌」という一番触れたかった題材を通して教えてくれていて、さらに、「菌」を通して見えてきたものも「波動とエゴ」という題材を通して見えてきた世界と結局一緒なんだという安堵感を覚えました。
もう一つは、こちら
だるまんの陰陽五行1 「木」の章 ココロの不思議を測るの巻 (マンガで解るシリーズ)この本は読者様から教えてもらったもので、
最初は最終巻から読んだのだけれども、面白かったので1巻から読んでみようと思って、今読んでいます。
そこで分かってきたことは、私は「波動とエゴ」という指針で物事を伝えようとしていたけれども、他の表現方法も沢山あって、結局何を選んで探求したとしても、最終的に答えは同じになるということでした。
どちらが良いということではなく、それぞれ自分に合った登山道が用意されていているという事なのだろうと、改めて思うきっかけになりました。
二つの書籍を今日読んで感じた事は
「自分が興味を持ったこと」or「与えられたこと」を一生懸命やっていれば、それぞれ登る道や方法は違うにせよ、結果同じ場所に辿り着くということなんだなと思いました。
そして、自分が書いた本(生きやすさを手に入れるための 波動とエゴの法則を書いた本)のあの図形が頭に浮かびました。
似たような事はこちらの記事でも書いてます。
ここに気がつくと、改めて自分はどこの場所からピラミッドを見る役割なのだろうという気持ちが生まれるものです。
そして、それは歩んできた道のりに既に答えは書かれているのかなぁと思うようになりました。
与えられていない役目に、人は憧れを持つものです。
人間が「自然の一部だ」と気がついてから、自分とは「自然の一分の略語だ」という思いに体感を持ち合わせるようになってから、私はやたら自然の中で生きたいという思いを交錯させていました。
ですが、残念なことに、どんなに私がそこで生を全うしようとしようとしても、なぜか私は必ずそこに行こうとすると阻まれるのです。
かなりポジティブ思考な方なので、このような事が起きるのは、私に敢えて神様が試練を与えているのだと思い込んで、一生懸命その試練を乗り越えようとして張り切った時代もありましたが、そうではなかったということを、経験を通じて理解するようになりました。
私は、どんなに自然の中で生きたいと願っても、そうではない役割を持ち合わせて生まれてきたのだなと、今は実感しています。
憧れを持つ役目からは甚だ遠い、所謂都会社会的にありがちな人間模様を考察することが結局私の役目なのだなと思い、受け入れ、それだけの事に没頭し、それ以外の事はどんなにやりたくても、現場には赴かないということをし始めてからは、全てが上手く回り始めるようになりました。
はっきり言って、「菌」と向き合う生活が与えられた渡辺さんの本を読むと、正直今は羨ましくて仕方がないですが、結局人はそれぞれ役回りがあり、それぞれがその与えられた役回りを全うすることで世の中が循環することができるのだと割り切るようなれました。
「人の意見はお金になる」という体感の連続が私です。
私は22歳からマーケティングという分野で端楽ことになりました。
しかもそのマーケティングは、F1やF2と呼ばれる王道マーケティングとは違い、ニッチだけれども需要が多かった女子高生を中心としたティーンズマーケティングです。
当時の私は今と比べれば随分若かったのですが、それでも20代前半と高校生の考えることは大いに違います。
当時の私は、高校生の思うことをそのまま、大人が分かる言葉に変換して伝えることをしていました。
一方で、大人の思うことをそのまま、子供たちが分かる言葉に変換して伝えることをしていました。
考察ということをしなければいけない時は、そこに双方の意見の相違を埋めるように私の意見が介在するようになるのですが、それぞれの媒介役になっている時には、そこに私の意見は基本的になかったように思います。
結論を言えば、世代間のつなぎ役となる通訳の仕事をしていたように思います。
そこで私に培われたのは、「人の意見を聞く」ということだったのだと思います。
そして、「人の意見を聞くということがお金になる」ということを体感として得たのだと思います。
大人になればなるほど、人は自分の意見だけが正しくなっていき、人の意見を聞けなくなりがちだと思うのですが、私は20代~30代にかけて「人の意見を聞くということがお金になる」という作業をずっと続けてきたので、自分の意見を持ちつつも、多分人よりも人の意見を素直に聞き入れる体質があるかもしれないなと、思っています。
この体質を活かして人の役に立つことが、結局私の役割であり、人生として与えられた制限ある幅なのだろうと、今は思います。
私は、多くの人の意見を聞くことも、多くの情報を集めることも得意です。
そして人や情報がどの立場のどの位置から言葉を発し、情報を提供しているのか、見極めることも得意です。
私に「菌」と向き合う生活は一生隣の芝だけれども、その隣の芝がもっと青くのびのびとできるように、いろんな情報を集めて、そしてその情報の媒介者であり通訳であるという心持ちを忘れずに、私は私に与えられてしまっただろう役目に没頭して、そして人生を全うしようと改めて思う一日でした。
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【新刊発売】生きやすさを手に入れるための波動とエゴの法則を書いた本
隣の芝は青いって一種のエゴの働きなのかな?ってちょっと思いました。
「真実」に気づくことを阻止するために他人に注意を向けさせる・・・
検証したわけでもないですが、こう考えたら他人を気にせず
自分のお役目に集中できそうな気がするので
ひとまず個人的に採用してみますw
そうですね。ただし、これはそもそも他人と自分を区別する「自我」があってこその感情なので、エゴが正常化してハートスキンになっても、この感覚は残りますよ。
そもそも人と区別する自我という機能があって、私たちは存在しているので、他を羨ましく思う興味というのは必要不可欠な機能なのだろうなと思ってます。
またこの感情は、寒い日には暖かさを求めたり、暑い日に寒さを求めたりする欲求と似ているのかなと思ってます。
ただ、エゴが正常化する前とした後で大きく違うなと思うのは、エゴが正常化する前は、隣の芝が青く見えることが「理想」にすり替わり、「渇望」が生まれ、一方で自分に与えられた現実に対して、悲観的になったり否定的な感情が継続しやすいのですが、
エゴが正常化すると、相手を羨ましいなと思う時間があっても、その感情は一瞬で、自分の与えられた現実の中で自分は頑張ろうと思える所だと思います。また、自分の役割を通して、憧れの人たちの手助けになれればいいなと素直に思えることかなと思います。
ということで、エゴが正常化しているのかどうなのかを図る指針として「隣の芝」に対する自分の感情を観察するのは結構良いと思います。
応援しています♪
竹久様
こんにちは
方法は違えど行きつくところは同じ
納得です
それが各人の経験だろうし、本来その経験する為に生れてきたのかな?思います
そのためにエゴを全うに戻すこと出来るよう竹久様の書籍活用させて頂きます
先ず太陽見たら笑って「万物~居ます」実践です
先日ようやく新刊読破しました
(数か所?おちゃめなミスあったようですが)
昨年面白いと思った本ありました
現在中古でも結構な金額ですが参考まで
「シャングリラからの伝言」という本です
作者は歯医者さんでHPもありますので下記参考まで
(問題ないとは思いますが・・・)
http://www.naramachi-oneness.com/
これからもブログ楽しんで拝読させて頂きます
いつも読んでくださり、本も購入して読んでくださりありがとうございます。
未だにどこを間違えたのか見つけられてない残念な著者なのですが……次はパーフェクトを目指そうと頑張ってます(^^;)宜しくお願いいたします。
この方も歯医者さんなんですね。
ここで紹介した五行の漫画を書かれた作者の方も歯医者さんなんです。
自分のお友達にも開業医の歯医者さんが約3名いますが、そう言えば全員個性的というか哲学的なものを持ち合わせていた上で現実を捉え楽しくしていこうとする面白い人が多いように思います。
今思い出したのですが、私が苫米地英人を読み出したのも、サーフィン仲間の歯医者の先生に教えてもらったからでした。
ご紹介して頂いた本を早速読んでみようかなと思いましたが、結構本当にこの書籍お高いですね(^^;)
まずはブログから読ませて頂こうと思いました。
それではこれからも宜しくお願いいたします☆