【和のしくみ】日本の統治は、世界の理想型

今日は「即位の礼 正殿の儀」です。

海外から多くの国王や王室の方がこの日のために集まっておられます。

そこで改めて、日本の統治と他国の統治の違いについて知っておいて頂けたらなと思うので、そのお話しを掲載します。

 

日本の地球で希有な国です。

私たち日本人のように和の形のしくみで社会が成り立っていた民族は地球の中では希有な存在ですが、私たちはその稀有さに気が付いていません。

気が付いていないからこそ、私たちは苦しんでいるのだとようやく数年前に私は気が付きました。

 

少なくとも私は数年前まで、日本が地球最古の国だということを知りませんでした。国が国であり続ける事がとても大変だということにも全く気が付いていませんでした。

だからこそ私は、他国の国替わりを自分たちの文化に当てはめて奈良時代とか平安時代とか戦国時代とか江戸時代のような違いに考えてしまっていたのですが、国が変わることと時代が変わることは全く別次元の話だったことに気がつき、心底驚きました。

そして、日本だけが和の形であり続けたからこそ、世界最古の国となれたし、その社会体制以外に、人々が生きることに真摯になれる方策などないことに気が付いていきました。

 

日本は古代より君主は君主の役割を、民は民の役割をと、双方が互いの役割を敬い尊重し、君民一体となり国を繁栄させて参りました。このような考え方の上で国造りができたのは日本くらいのもので、この顕現が可能となったのは、何よりも天皇陛下のご存在があったからこそのことです。

日本は二六七九年前に神武天皇によって建国されて以来、即位されました天皇はみな「民のために自分が存在する」と考え、国家と国民の安寧と繁栄の祈りを日々捧げてくださっておられます。

大晦日や元旦の時、国民は年の変わりを家族・友人らと楽しく過ごしますが、天皇陛下は、年末も年始も、国家と国民の安寧と繁栄を祈るために行われる宮中祭祀をしてくださっています。元旦に行われる神事である四方拝(しほうはい)は、なんと朝4時頃に行われます。国民たちがこの一年笑って楽しく暮らせるようにと、天皇陛下が早朝から国家・国民の安康、豊作などを毎年祈ってくださっています。

七十三年前の敗戦によって、日本人は日本に誇りを持てなくなり、国旗や国歌を軽視するようになり、また天皇陛下のご存在に意を唱える人の声も大きくなりましたが、それでも陛下はいつも民のことを思ってくださっています。

私たちにとってそれはあまりに当たり前のことなので、そこに「すごい」という感覚が沸きにくいのですが、この広い地球の中でこのような君主の在り方が継承されているのは日本くらいです。

世界の君主のほとんどは「自分のために民が存在する」と考えました。日本とは違い、他国において民とは王の所有物の一つだったのです。このご時世においても、独裁主義を貫いている北朝鮮や中国では、未だに民は君主となる人物の所有物となっています。

 

日本の統治は循環型で成り立ってきました。

地球の多くの国々では、「自分のために民が存在する」と考える王たちの支配が続きましたが、日本は古来より「民のために君主が存在する」と考えられ、歴代天皇たちはその役目を全うされてこられました。

このように同じように統治しているように見えても、精神的構造やまたその精神によって生み出される社会構造は全く異質のものとなります。

これは食物連鎖の構造で考えて見ると分かり易いと思います。

「民のために君主が存在する」と考える時、君主は循環の概念の中の一つの役割を担う存在となるため、創り出される世界は和(輪)の形となっていきます。

一方で「君主のために民が存在する」と考える時、君主はピラミッドの頂点にいる存在となり、搾取の概念を定着させていく三角の世界を創り出していきます。

日本がそもそも持ち合せている食物連鎖の考え方は循環型ですが、西洋は人間を頂点とするピラミッド型の思考性を持ち合せており、この思考性によって生み出される世界観は、次元が違うほどのものを生み出すことになります。

そして、この世界観の大きな違いを生み出すのが君主の在り方によるものなのです。

君主の在り方の違いで、日本は君民一体となり民度の高い国作りをすることができました。また日本のように君民一体となり、それぞれが自分の役目を果たす生き方ができる方のが、国が豊かにそして民が幸せな暮らしができることは、歴史的事実によって裏付けられています。

 

日本が滅びない理由はどこにあるのか?

繰り返しますが日本は、二六七九年前に神武天皇によって建国されて以来、国が滅びた事がありません。

しかも、一つの国家として二千年以上の歴史があるのは地球で日本だけです。地球で二番目に長い国はデンマークで約千年、次がイギリスで約八百年。世界にあるほとんどの国は、長くて数百年前後です。他国と比べて日本がどれほど長い歴史を刻んできたのかお分かり頂けたでしょうか。

そして、他国は「君主のために民が存在する」という考えで運営された結果、何度も国が変わる事態が起きています。中国大陸には四千年の歴史がありますが、日本のように一つの王朝によって何千年もの歴史を積み重ねてきた国ではありません。

殷から始まった国作りは、何十回も統治者が変わりました。支配者が変わる度に民は、常識もルールも変化せざるを得ない環境を生き抜くことを余儀なくされてきました。その上、中国の統治者は民のことを思って国作りするわけではありません。

「君主のために民が存在する」という考えがどの統治者にも当たり前のように息づいています。

沢山の民族が混在する大陸の中で、頂点を極めた民族や指導者が己の栄華を誇示するための国作りをしていきますから、民に安寧と繁栄など与えてもらえるはずもありません。だからこそ、その支配を奪うことを考える人が常に現れることとなり、国が長続きできないのです。

どれくらい中国大陸には国があったのか、高校で習った中国王朝の名前を連ねてみますね。

殷、周、東周、春秋戦国、秦、前漢、新、後漢、魏、蜀、呉、西晋、東晋、宋、斉、梁、陳、隋、五胡十六、北魏、東魏、西魏、北斉、北周、隋、唐、五代十国、宋、金、南宋、元、明、清、中華民国、中華人民共和国

こんなにも入れ替わり立ち替わり国が変わるのが中国大陸の歴史です。

繰り返しますが、国が変わることと時代が変わることは全く別次元の話です。国が変わるということは、その民族が滅ぼされることを意味します。

少なくとも中国ではそうです。

そして、新たに君臨した民族によって統治が始まることを意味するのです。日本は時代が変わったからといって、征夷大将軍が変わったからといって、それを理由に民が殺されることはありませんでしたが、地球のほとんどの場所では、それが当たり前に行われてきており、現代においてもそれは続いています。

事実、中国が侵略したウィグル、チベット、内モンゴル、台湾では、様々な形で民族浄化が行われており、今目の前で、支配者の意向によって、民族を消す活動が行われています。

ピラミッド型の世界観が作り出す社会というのは、頂点にいるものだけの安寧であり、他の誰かの生存を脅かす社会を創り出します。生存を脅かされた誰かは、自分の命を守るために決死の戦いを挑まなければならない状況に追い詰められていきます。

そして、生存を脅かされることに対する危機感こそが、社会不安への契機となっていきます。なぜなら、人は生存の危機に脅かされれば脅かされるほど、全体を考えるよりも個人として生き延びていくことだけが重要となっていくからです。

その上、「君主のために民が存在する」と考える君主の言葉に従っても、反抗しても、民の生存は脅かされたままになります。ですから、彼らは嘘をつくことを覚えます。

そして、嘘をつくことは生きる為の必要な手段として、悪いことではなく当たり前のこととなります。そして、騙すことが悪いのではなく騙されるのが悪いという価値観にも発展していきます。またこの状態が慢性的になっていけば、全体よりも個人がどんどんと重要になっていくため、社会全体は不信感に満ち溢れるようになっていきます。

ピラミッド型で作られる搾取の世界観は、循環が基本となった自然な流れから逸脱するものなので、支配する側もされる側も、あるがままではいられず不自然を醸成していきます。その不自然に人は不安や恐怖を抱いていくのです。

日本でもピラミッド型社会の考え方の基本である「自分の為に誰かがいる」、「人間のために地球がある」と考える世界観が普通となっていくのと比例して、不安定な心持ちになる人が増えています。

バブルがはじけてから抜け出せずにいる社会の停滞もこのような考え方が馴染む社会であることが要因としてあげられるのではないのでしょうか。

また、世界から見て極めて安心安全で豊かな社会が形成されているはずの日本に住みながらも、多くの人は「お金が無くなったら生きていけない」という恐怖を感じながら生活しています。このような考え方に固執せざるを得ないのも、不自然な形であるピラミッド型社会に身を委ねているからこそでしょう。

 

違いが分かると意識も変わります。

この違いが腑に落ちてくると、「お国のために」という言葉の捉え方は大きく異なってくるはずです。

和の世界観の場合、自分がこの社会を構成している責任と自覚が芽生えます。ですから、この社会体制を維持することが最大の目的となるため、個人を犠牲にしてでも大きなものを守ろうとする気持ちが生まれやすいでしょう。つまり、「お国のために」という言葉は、個人の自発的な思いから生まれてくる言葉となります。

一方でピラミッド型の世界観の場合、誰かによってこの社会が支配されているという抑圧された感情を携えながらも、嫌々それに従って生きているという心情が醸成されていくはずです。

ですから、「お国のために」という言葉は、誰かに嫌々そう言わされているという言葉であるという印象を受け取りやすくなるはずです。

 

自発的な思いからそう言うのか、誰かに言わされているのかと捉えるかで、見える世界は全く違っていきます。そして、現代人は当時の人の思いを現代的な価値観に沿った一方的な解釈で見つめているだからこそ、歴史に誤解が生まれたり、祖先たちが残してくれた言葉を活かした生き方ができなくなっていると思います。

それぞれ自分で日本の歴史を学び直して、国体を自分の身体の中に取り戻していきたいですね。

追記

即位の礼に合わせて書いた記事が他にもありますので、お時間許しましたら是非お読みくださいませ。

【神話は健在】皇居に虹がかかる!

2019年10月22日

【和のしくみ】日本の統治は、世界の理想型

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