【歴史と文化の冒涜】あいちトリエンナーレ豊田会場も酷かった!!!!!!!!!!!

クリムト展を見たかったこともあり、序でに噂のあいちトリエンナーレも視察しておこうと思って、本日豊田美術館に行って参りましたが、腸煮えくりかえるほど酷かったです。

これはもう、日本の歴史と文化に対する冒涜としか言いようがないです。

 

潜入!あいちトリエンナーレ豊田会場!

あいちトリエンナーレで話題になっているのは、主に名古屋会場の「表現の不自由展・その後」であって、後は割合普通な展示がされていると思っている方が多いと思います。

ぶっちゃけ行ってみるまで、私自身がそのような解釈の上におりました。

街角で見かけるポスターは、隣に並ぶクリムト展の芸術性と比べたらあまりにお粗末な子供のお絵かきのようにしか見えないデザイン性の低さで……

↓これ

 

また、このビジュアルが、以前東京オリンピックロゴで話題となったサノケンの芸術を彷彿させるものだったので、

↓これ(サノケンとサノケンが制作した東京オリンピックロゴ)

(↓これもサノケンの作品でして、これにクリエイティブをどう感じるべきか毎度私は悩みますが……)

(↓これまた盗作疑惑のあるものです。)

佐野研二郎氏の「つや姫(山形県ブランド米)

 

見に行った所で感動を覚えるものなど何一つは無いだろうとは思っていたものの、まさかこんなに腹立たしい思いを添えて帰ってくる事になることなど、思いもしておりませんでした

はっきり言いますが、それくらい酷かったです!

唯一の救いは、豊田市美術館でクリムト展が開催されていたことです。

先にあいちトリエンナーレを見てから、本物の芸術であるクリムト展を観たことです。

まさかの事態に備えて、先にあいちトリエンナーレを見ておいて本当に良かったです。これを後に観たのなら、クリムト展の感動が全て失われるところでした。

ちなみに、来場者数は10:1以下といった所です。クリムト展は平日にも拘わらず大盛況でした。もしもこれが土日だったらと思う程の人の入り。一方であいちトリエンナーレは、10億以上の税金をつぎ込んだ意味があったのかと思う程、閑散としておりました。

 

あいちトリエンナーレは、そもそも芸術とは呼べないものばかり

先に言っておくと、私は現代美術はそもそもそんなに好きではありません。

その理由は「押しつけがましい感じがする所」です。

「ただ椅子をそこに置いた」くらいのどうしようもないような殺風景を前にして、「ここに芸術を感じてください」的な感性がどうも受け付けないのです。

そんな所に芸術を求めるより、身の回りにある伝統工芸品の方がよっぽど技術的にも芸術的にも素晴らしいと思ってしまうので、そもそも現代美術の多くに芸術性を感じないのです。

でも、各々の感性があって表現していることを否定するのはどうかと思うので、今までは好みの問題として流していました。

が……、今回のあいちトリエンナーレは、芸術を度外視した思想の押し売りが凄すぎて、さらにその思想の押し売りの背景にあるものが、祖先が積み重ねてきた伝統工芸品を踏みにじったり、さらには文化を冒涜しているとしか思えないものだったので、腸が煮えくりかえって仕方が無い気持ちになりました。

美術展を観に行って、こんな思いに駆られるのは初めてです。

ある種この思いは、私が「日本人である自覚」に基づくものによるものだと思うので、「自分が日本人であった」ことを確認をし直す良い機会になったのかもしれませんが……でも……、わざわざ日本で、そして公的な場で、しかも国民の税金が使われている場所で、なぜこのような憤慨する気持ちを抱え、そしてこんなゴミみたいなものを芸術として尊重せねばならないのかと思えば思う程、本気で腹立たしくて、まだこの思いが収まっておりません。

来場者がここまで腹立たしい思いを抱える芸術祭って一体なんなんでしょう。

 

心を抑えて展覧会の一部始終をお届けします。

とりあえず、今日私が観てきた順にお届けします。

最初に見たのはこれ↓

タリンサイモンさんの「隠されているものと見慣れぬものによるアメリカの目録」 「公文書業務と資本の意思」という企画展です。

これはまぁまぁ現代美術にありがちな写真と映像の個展です。

芸術と捉えるべきか、思想の主張と捉えるべきか悩むけれど……まぁまぁあるかな?ありかもしれないなと許容できるレベルのものでした。

ただ「公文書業務と資本の意思」というコーナー名から分かるように、ここの部分は外交会談で使われた花を再現した写真の展示だったのですが、本当に伝えたいことは写真ではなく、その時どういう会議が行われたのかを伝えたいだけのもののように思えてしまいました。もちろんその伝えたい会議内容は作者の思想が反映されているものと言えるでしょう。

作品としては見るに値するものの、事前に偏ったイデオロギーがあることを知っていたものもあって、実行委員会が示唆する思想への導きであり、また洗脳の序章としか見えなくなってしまったのは残念でした。

 

まぁこの人の作品は特段憤りを感じるものではなかったのですが、この先の導線にあった作品が本気で酷いです。

ということで、ここから本題なのですが……多分めっちゃ長い記事になりそうな雰囲気が自分の中に漂っているので記事分けます。

 

それではまた!

他の記事も書けました。合わせてお読みくださいませ。

 

 

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2 件のコメント

  • こんにちは
    あいちトリエンナーレ、想像以上の酷さですね。
    私も美術館巡りは好きですが、ゆりさんと同じく現代美術は苦手です。
    ゆりさんのブログを読んで、随分昔に友人が芸術って神様みたいな物だと思っていると話した事をふと思い出しました。
    魂が喜ぶと言うか、この作品を見る事ができて良かった!みたいな感覚になりますよね。
    神様のいない国の人達に芸術を作る事は出来ないと思います。

    • こんばんは。
      本当に酷かったんですよ(>_<)私の文章と写真でどこまでお伝えできているか分からないのですが、現代美術が苦手ながらも寛容なはずの私が全くもって許せないと思う程、酷かったんですよ(>_<) お友達の言葉素敵ですね。私もそうだと思います。 そもそも芸術は自然の中に溢れていて、人間というのは、その自然が作り出してくれた感性に近づくことしかできません。そして芸術とは、作品の中に自然の中にある造形美を感じれて初めて成立するのではないかと思います。そして、神を感じるのではないかと思います。 また、世の中というのは、崇高な学問的な美術・芸術ではない所に、真の美術・芸術が宿っているように思います。 たとえば、商業であるJ-POPの歌の中には、よっぽど現代アートと呼べるものがあると思います。 米津玄師の歌の方が、よっぽど現代芸術だと私は思いました。 今流行ってる「パプリカ」は、あぁ米津玄師という感じの曲ですが、あの曲を口ずさみ嬉しそうに踊る子供を見た時、曲と子供に神の要素を感じてしまいます。芸術は崇高では無く、身近にあるのだなと思います。 そうですよね。神の感覚が分からない人に、芸術など生み出せるはずがありません。 それではこれからも宜しくお願い致します。

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