戦後の日本人は、愛国心が全く育まれない変な教育を受けて大人になるから、みんなごくごく当り前だけれども、大事な事が分からなくなってしまい、そして混乱して明後日の方向に向かってる事が多いように思う。
愛国心があるのは当り前のこと
ほんの数年前までの私は、「愛国心を持つこと」にものすごい抵抗がありました。
とにかくそういう気持ちを持つことが気持ち悪くて、気持ち悪くて、そしてそんな気持ちを持ったのなら、戦前の日本人のように泥沼の戦争を作り出す一員になってしまうのだと思っていました。
しかし、昨今急激な変化を余儀なくされている国際事情を理解していくために、様々な文献を読み漁り、またその過程でこの国の歴史をきちんと知り直す必要がある事に気がつき、そして国の歴史を改めて学び直すことに精を出し続けました。
そのうちに、私が持ち合せていた感覚は、日本人を滅ぼすために導入された思想である事が分かってきたので、敢えて気持ちを入れ替えてみました。
今までどうにもこうにも受け容れがたかった国体、国益、国家、国民などを始めとして、とにかく国という立場を否定することなく、その視点で自分自身も過ごしてみることにしました。
そして、分かりました。
こっちのが居心地が良いことを。
また、ようやく1人の人間としての生きる基盤を手に入れられた感覚を持ち合せました。
そしてようやく、愛国心とは人が人として生きていくために、必要不可欠なごくごく基礎的なエッセンスであることも理解できるようになりました。
愛国心の論争自体が不毛
戦後教育を受けて育った私たちは、愛国心を「持つ」か「持たないか」という点で、大きな論議になりやすいのですが、この軸の外れた論争こそが、またもや本質を妨げる事に繋がっています。
なぜなら、持つのか持たないのかという軸でムキになって話し始めれば、「人が人として生きるために基礎的なエッセンスに過ぎない感覚」が、「正義」にすり替わってしまうからです。
愛国心を持つことも正義。
愛国心を持たないことも正義。
という、正義と言う名の論争に変化してしまうのです。
愛国心が生きる為に必要な基礎的なエッセンスというのは、私たちが朝起きて夜眠るくらいの基礎的なことと同意であって、またご飯を食べなきゃ生きていけないと同じくらい当り前のことなんです。
そこを論議する必要などないのです。
当り前の愛国心を身につければ、この社会を良くも悪くも自分事としてとらえれるようになります。そして、この社会の一部として自分はどのように活動するべきかという個人としての自分では無く、全体の役割としての自分という立ち位置で様々な事を考えられるようになります。
現代社会は、個人の尊重に重きを置きたがりますが、個人を尊重すればするほど、人の視野は狭くなり、私利私欲に囚われ、不安で孤独な日常を謳歌するだけのことになります。
本来不必要である、不安や孤独を持ち合せるからこそ、あらゆる事が敵に見え、その敵と戦うことが人生にすり替わります。
それは本来持ち合せるべき当り前の感覚が欠如して、間違った感覚を醸成してしまったがゆえの産物だと言えるでしょう。
そして、現代人のほとんどはこの間違った感覚の中で育てられ、大人になっているからこそ、先ほども申し上げた通り、愛国心を持つか持たないかと言うことが論争の軸となり、持つことも持たないことも正義にすり替わっていきます。
正義と悪は同義語です。
私たちは、愛国心を持つことを否定して育てられたからこそ、愛国心を持つことに抵抗もあるし、また愛国心を持ったのなら、それを特別に思ってしまいがちです。
ですから、愛国心を特別に思ったりすることが、正義にすり替わりやすい社会環境に生きているのですが、愛国心が正義になった瞬間から、愛国心を持たない事が正義と言っている人と同じ土壌に戻るので気をつけた方が良いと思ってます。
正義になるというのは、「愛国心があるのが正しい」という思いが強くなることであり、「愛国心がないのは間違い」ということに繋がります。
すると、自分と反対の意見を持ち合せている人との対立に繋がっていきます。
何度もお伝えしてますが、これは波動同期で物事を解決させにくくさせていくきっかけとなります。
波動同期の詳細は、生きやすさを手に入れるための 波動とエゴの法則を書いた本で。
そもそも愛国心を持つことは正しいとか正しくないとかの論議の次元にないものなんです。
愛国心で議論するのは、
人間が眠ることが正しいのか正しくないのかとか、
人間がご飯を食べるのが正しいのか正しくないのか議論しているのと同じレベルです。
愛国心を持つということは、正しいとか正しくないとかの以前の問題で、人が人として生きるために必要な基礎的なエッセンスに過ぎません。
そこを混同して正義としていくと、全くもって頓珍漢な行動に繋がっていくことになると思うので、気をつけた方が良いなと思ってます。
特にこれから世界情勢は大きく揺れ動くはずです。そのため多くの人の愛国心が刺激されることがあるはずです。
ですから気をつけた方が良いかなと思ってます。
そもそも現代日本人は愛国心が何なのかと分かっていない状態から、一気に目覚めることにみんななってしまうはずなので、その扱い方が分からず混乱してしまう人も結構な多数で現われるかと思うのですが、そこに流されず冷静に淡々と日々を丁寧に生きていきたいものですね。
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「愛国心」とは何なのか?
誰もが一度、冷静に考えてみた方が良いと思います。
僕は、
https://www.qdech-labo.space/philosophy/2019/01/03/post-372/
にも書いてありますが、基本的に自分を愛することと愛国心の根は同じだと思っていて、「愛国心」と「自国中心主義」は、全く違うものという立場です。
自国を持ち上げるために、他国を貶めたり蔑んだりするのは、恥ずかしい行為であって、それは自分を愛することが人のことを顧みず好き勝手やるということではなく、人との比較の中で自分の価値が決まるのでもないということに繋がります。
愛国心がある人は、良いところ悪いところ含め、自国を愛しているのであって、だからこそ悪いところを良くしようとします。自国中心主義者は悪いところから目を背け「なにやってもいいー」的に国を盲信し始めます。
自国を嫌っている人は、自分を好きになれない人と同じく、他者からの承認によってしか自我が保てない可哀想な人だと思ってます。
こんにちは!ブログ見ました!
確かに!愛国心そのものを大いに勘違いされている人が沢山おられますよね。
私はそこら辺の事がいつも盲点になってしまいがちです。
ただ、勘違いしているからこそ「正義」になったり変な形になっていくのでしょうね。
仰る通り「自分を愛す」というのも同じ。
戦後世代は「愛すること」=「特別な扱い」的なものと同義で結びついているのではないのでしょうか。
それが問題解決できない基点になっているかもしれないですね。
この勘違いは本当に可哀想です。
それではこれからも宜しくお願い致します。
こんにちは、お久しぶりです。
私も半世紀近く生きてますが(^_^;)、30歳過ぎまではお花畑でした。
目が覚めたのは2002年の日韓WCです。やりたい放題の韓国&何故か韓国を応援する日本のマスコミに疑問を持ちました。
極めつけは閉会式での上皇陛下に対する韓国大統領夫人の非礼振りです。
スタジアムで座席に向かわれる際、韓国大統領➝上皇陛下➝韓国大統領夫人➝上皇后陛下の順なのに上皇陛下より先に行こうとする夫人。上皇陛下は一瞬戸惑われたものの夫人に先を譲られ、夫人は当然のように先に階段を降りていきました。
それを見た私は「うっわ〜」と絶句。韓国ってこんな三流以下なのか?と思いました。
それからネット等で知識を得て、お花畑から抜け出した次第です。
ただ元々お花畑だった私のような人間は「今まで騙されていた!」というショックから、ともすれば極端に走りがちで(^_^;)
今回の竹久さんの記事で「自分は傲慢になっていないか?!」と気づかせてもらい、ありがたく思いました。
こんにちは。コメントありがとうございます。
私もものすごいお花畑でしたよ。桜餅さんが目が覚めた日韓WCでも私は目が覚めませんでしたよwwwww
さすがに私も韓国のプレーのひどさやどう見ても審判買収しているとしか思えない無理くりな勝ち方の連続には、不思議でならなかったのですが、私はもっとお花畑に住んでいたので、怒りとか非礼とかそういうことにまで頭が及びませんでした。
私が気がついたのはかれこれ6年前くらいからです。同じように「騙されていた!」ショックは持ち合せましたが、それよりも前に波動とかエゴに興味を持つようになったので、なんとか俯瞰できる心持ちに辿り着こうと試行錯誤してみただけなんですよ(^^;)。お恥ずかしい……。
それではどうぞこれからも宜しくお願い致します。