※こちらは、以前私がアダルトチルドレン(現在の自分の生きづらさが親との関係に起因すると認めた人)の問題に向き合っていた時に書いた内容を掲出しています。できれば最初からお読み頂ければと思います。→0.はじめに
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アダルトチルドレンは国民病?!
第二章 過去と現代の狭間にあるもの
2-6.戦後の定説はデマばかり
戦後に教育を受けた人たちの多くは、誤った認識で先の大戦を見つめています。その大きな理由として考えられるのが、二つのデマが定説として常識化してしまったことが考えられます。
二つのデマとはこれです。
①昭和天皇の判断のもと、日本は戦争に突き進むことになり、天皇のせいで、国民は苦しめられた。
②戦中・戦前の日本の主権は昭和天皇にあった。しかし、敗戦を機に日本の主権者は国民へと移行することができた。戦争による敗戦は、日本を悪の天皇統治から解放する革命でもあった。
これは、一般的に「八月革命説」と呼ばれているもので、歴史的事実ではないことが明らかなデマです。
まずは何がどのようにデマだったのか検証していきましょう。
戦前の日本の決定権は常に昭和天皇に委ねられていたと思い込んでいる人が多いのではないかと思うのですが、実際はそうではありませんでした。
明治の時代から今日まで、日本の政治制度は大きく変化しておりません。なんなら、ほとんど同じと言っても良いでしょう。今と同じと言うことは、天皇陛下は国民(政府)が決めたことに口出しをしないということです。
昭和天皇の政治的お役目も、国民(政府)が決めた内容(法律など)に対して公布することでしたし、それ意外にはありませんでした。ただし、国民(政府)がどうしても決断ができなくて判断を天皇陛下に委ねた時に、自分の思いを口にすることはありましたが、それは滅多にあるものではありません。
昭和天皇が国民(政府)に判断を委ねられて決断されたのは、六十四年の御代の間にたったの二回です。
一つは皇道派(※)と呼ばれる陸軍青年将校が起こしたテロの時。後に二・二六事と呼ばれるようになった出来事です。※皇道派とは、天皇陛下が君主として全ての政治判断をすることを求めた派閥の一つです。
昭和11年2月26日(1936年)、陸軍青年将校たちは、内閣総理大臣を含む閣僚たちを襲撃しました。この時に高橋是清大蔵大臣と斎藤實内大臣は殺害されました。
さらに、陸軍青年将校たちは総理大臣官邸、警視庁、内務大臣官邸、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸、東京朝日新聞を占拠しました。彼らはこの行動で、政治の舵取りを天皇陛下に委ねようとしましたが、天皇はこれを「大日本帝国憲法を否定するもの」だとして拒否し、「速やかに鎮圧せよ」とクーデターを鎮めました。
つまり、二・二六事件というのは、そもそも戦前の政治が昭和天皇の独断で行われていなかったことを立証するものであり、また天皇がそのような政治を求めておられなかったことも立証するものです。
この事実を直視するだけでも戦後定説化され続けている情報がデマであることが分かります。
もう一つ昭和天皇が意見を口にされたのは、「第二次世界大戦における日本への降伏要求の最終宣言」となる「ポツダム宣言」受諾の賛成です。
「ポツダム宣言」を受諾するか否かの危機に迫られた会議は、昭和20年8月9日(1945年)に行われました。昭和天皇も会議には参加していましたが、天皇が意見を口にすることは本来ありません。しかし、政府内で賛成派と反対派の膠着状態が続き、結論がどうにもこうにも出ない状況になってしまったために、一つの意見として思いを口にされました。
昭和天皇は、本土決戦を行えば日本民族が滅びてしまう危険性から、また、祖先から受け継いできた日本を子孫に伝えることが重要であることから、ポツダム宣言受諾に賛成なされました。
ポツダム宣言を受諾するということは、昭和天皇が戦犯として処刑される可能性もあるのです。しかし、天皇は「自分はどうなっても構わない」と犠牲になる覚悟で賛成の意を表明しました。
そして、ポツダム宣言を受諾して約一ヶ月後、日本統治のためにやってきたGHQの総司令官マッカーサーとの初面会にて、昭和天皇は同じ事を口にされます。
「敗戦に至った戦争の、いろいろな責任が追求されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼らには責任がない。私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」(藤田尚徳『侍従長の回想』昭和36年)
昭和天皇は、自分の身はどうなっても構わないから、国民を助けてほしいと懇願されました。
この昭和天皇のお言葉で「欧米が考える君主の在り方とも国家とも、日本は違う」と気がついたGHQは昭和天皇を戦争犯罪人として裁くことは取りやめました。
このような君主の在り方は、欧米人にとっては概念すらない存在であり、西欧人に土地を奪われた民であるユダヤ民族においては理想の形だと言います。
昭和天皇とマッカーサーの会見を知ったユダヤ人モルデカイ・モーゼ氏は著書「日本人に謝りたい」でこのように語っています。
天皇が開口一番、自分の事はどうなってもいいから国民を救ってほしいと切り出した時、マッカーサーは驚天せんばかりであった。この席にルソー(※)が同席していなかったのが真に残念であるが、西洋の君主というものはそれこそマルクスのいう支配者、搾取者である。一般大衆は被支配者、被搾取者に甘んじなければならない。
西洋の君主は、大衆から収奪した莫大な財産をもっている。戦後GHQが天皇の資産16億円と発表した時、日本人はキョトンとしていた。つまり、GHQは西洋の君主並みに日本の天皇も収奪した財産をもっているはずであると考えたから、それを直ちに国民の前にみせつけたわけであろう。ところがこれを聞かされた日本人は一様に、そういう感覚の持主もいるのかと内心驚いたということである。しかし西洋の常識としてはこれは奇異でもなんでもなく、至極当然なことだったのである。
かような西洋の君主は、いざ革命、戦争、政変などのあった場合は、直ちに自己の生命の保証と財産の保全を求めて亡命などを計るのを常とする。したがって、マッカーサーも最初天星が訪問の希望を述べた時、非常にきびしい顔をしていたという。いってみればそれは当然のことであろう。日本の天皇もいよいよ生命の保証と財産の保全のためどこか適当な亡命先の斡旋を懇願に来るのであろうとマッカーサーが考えたのも、無理からぬ話であろう。
しかるに前述の如く、天皇は開口一番、自己の生命や財産の保証ではなく、国民の財産や生命の保証を求めたのであった。国民を質入れして自己の保身を計る西洋の君主とは逆に、自己を質入れして国民の救済を求めたということである。マッカーサーたるもの、すべからくルソーに対して自分が味わった感激を報告すべきであろう。
戦後の占領改革にも拘らず天皇制が存続できたことは、私の最も喜びとするところである。これはひとえに当時GHQを牛耳っていたニューディール派、つまりユダヤ勢力が天皇制に自己の民族の理想を見出したからに他ならないのである。
※ルソー(ジャン=ジャック・ルソー)18世紀のフランスの哲学者。フランス革命に大きな影響を与えた人物。第一章で紹介した「エミール」の著者
しかしながら、「八月革命説」のようなデマを真に受けてしまった国民は、知らず知らずのうちにピラミッド社会の君主の在り方(君主のために民が存在する)と同じように天皇陛下が存在していると考えるようになりました。
そのため戦後に生きた私たちは権力を持ち合わせた人は悪であると思い込む所がありますが、それは単なる欧米主観であり、元々の日本人はそのような思い込みすらありませんでした。
また、戦後になってからといって皇室の心の在り方が変わるはずもなく、先の項目でお伝えした通り、天皇陛下はいつも私たちのことを思い祈ってくださっています。
しかし、私たちは歴史的事実を全く認識していないどころか、デマを真実だとして生きています。
そして、デマを真実だと思っていることはこれだけではありません。私たちが家族関係や人間関係に悩み苦しみ抜かざるを得ない理由のほとんどは、デマを真実だと思っていたり、敢えて不幸せになる手段を幸せになる手段だと思い込み、間違った方向に歩んでいるからだと思います。
私たちがデマを真実だと思う社会体制はどのようにして出来上がっていったのか、次の項目で確認していきましょう。
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