【現代】アダルトチルドレンにならない方のが難しいのでは?

現代の環境をじっくり観察していたら、どんなに親が努力したところで、もしくはどんなに子供が努力したところで、アダルトチルドレンにならない方のが極めて稀なのではないかと思うようになってきました。

 

現代社会は、アダルトチルドレン養成所?

現代社会の枠組みの中にある常識の中で生きていたら、アダルトチルドレン的な症状を抱えることなく人生を謳歌できる人って限りなく少ないのではなかろうかって思えてきてしまいました。

なぜなら、現代の多くは核家族で、地域のコミュニケーションも無くなってきています。

広いコミュニティが確保できている社会であれば、子育ても地域の協力によって穏やかにできる部分が増えるでしょうが、コミュニティの範囲が狭まれば狭まるほど、子育てにおける親の影響力や守備範囲は増えることになっていきます。

 

核家族であれば、家庭内に持ち合わせる親の影響力や支配力が強くなるのは当然で、子供はその支配下の中におかれることになります。

親は子供を支配しようとなど思ってはいませんが、立派に育て上げようとしていく中で、叱ったりすることは当然あるでしょうし、また家族内という小さなコミュニティの取り決めも必ず生まれてくるでしょう。全て子供の言うとおりや思うとおりになんてなるわけがありません。

すれば親子間での対立などが生まれるはずですが、そうなると親は親だけが持っている家庭内の強制力を当たり前に使います。

本当は、互いの本音を話して着地点が見つかればいいのですが、家族であればあるほど、誰もが感情が前にたちやすいですから、なかなかそれができない。

親も子も、互いに「もっと自分の気持ちを分かってほしい」or「自分の気持ちを分かってもらえない」という思いだけを膨らませてしまうだけになることが多いように思います。

その時に抱えたすねた気持ちとかが、後々トラウマと呼ばれる症状にも繋がっていくのかなと思います。

少し前に書いた記事にアメブロの方のコメントで、家族に素直に「ありがとう」って言えるようになると、問題が起きにくくなる書いてくれた方がいらっしゃって、本当にその通りだと私も思うのですが、どこかのタイミングでみんなこじらせて、素直に「ありがとう」と言えないむしゃくしゃした感情だけを蓄積していくことを繰り返していくんだと思います。

 

そして、こういう心の症状は、大凡誰もが持ち合わせている心の症状だと思います。

 

そして、現代社会の環境下では、親がどんなに努力しても、子供がどんなに努力しても、そうならない方が難しすぎると思えてきてしまいました。

 

私もここ何日もこの問題と向き合っていたら、知らず知らずのうちに事態の深刻さを感じてしまって仕方がない気持ちに駆られているのですが、そうならないのが普通なのではなく、なるのが普通の世の中にいることを多くの人が自覚した上で、「自分だけが特別」という思いを外す事がまずは大事なのだろうなって思いました。

だって、自分を特別に思う程、エゴは肥大化を始めるから。

 

っていうか、この問題根が深すぎるね。

 

デラシネが増えている一方で、アダルトチルドレンの根が深いってなんだかなぁって思っていますが、やっぱりこれはここ100年以内の日本人の症状のように思います。

 

過去の日本は、子供の楽園だった??

 

戦前の日本の様子を客観的に知るのには、その時代に日本にやってきた外国人(イザベラバードなど)の本を読むと良いかもしれないなと思っていたところ、こんなサイトを見つけました。

このサイトには「近現代の日本を訪れた外国人」コーナーがあって、イザベラバードなどがしたためた言葉などが載っています。

すると、やっぱり昔の庶民には、現代のアダルトチルドレンたちが抱える心持ちは無かったんだろうなと思います。

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このサイトで紹介されていた外国人の子供に関する記述を引用させて頂きますね。

C・P・ツュンベリー『江戸参府随行記』

注目すべきことに、この国ではどこでも子供をむち打つことはほとんどない。子供に対する禁止や不平の言葉は滅多に聞かれないし、家庭でも船でも子供を打つ、叩く、殴るといったことはほとんどなかった。まったく嘆かわしいことに、もっと教養があって洗練されているはずの民族に、そうした行為がよく見られる。学校では子供たち全員が、非常に高い声で一緒に本を読む。そのような騒々しい場所では、ほとんど聴力を失ったようになる。 (p. 121)

礼儀正しいことと服従することにおいて、日本人に比肩するものはほとんどいない。お上に対する服従と両親への従順は、幼児からすでにうえつけられる。そしてどの階層の子供も、それらについての手本を年配者から教授される。その結果、子供が叱られたり、文句を言われたり打たれたりすることは滅多にない。 (p. 221)

 

ラザフォード・オールコック『大君の都:幕末日本滞在記 上・中・下』

いたるところで、半身または全身はだかの子供の群れが、つまらぬことでわいわい騒いでいるのに出くわす。それに、ほとんどの女は、すくなくともひとりの子供を胸に、そして往々にしてもうひとりの子供を背中につれている。この人種が多産系であることは確実であって、まさしくここは子供の楽園だ。 (上巻, p. 152)

 

イザベラ・バード『日本紀行』

これほど自分の子供たちをかわいがる人々を見たことはありません。だっこやおんぶをしたり、手をつないで歩いたり、ゲームをやっているのを眺めたり、いっしょにやったり、しょっちゅうおもちゃを与えたり、遠足やお祭りに連れていったり、子供がいなくては気がすまず、また他人の子供に対してもそれ相応にかわいがり、世話を焼きます。 (上巻, pp. 182-183)

なぜか子供は男の子が好まれるとはいえ、女の子も同じようにかわいがられます。子供たちはわたしたちの抱いている概念から言えば、おとなしすぎるししゃちほこばってもいますが、外見や態度は非常に好感が持てます。 (上巻, p. 183)

小佐越は高原にある小さな村で、とても貧しく、家々は貧困に荒れています。子供たちはとても汚くて、ひどい皮膚病にかかり、女性たちは重労働のせいで血色が悪くて顔つきが険しく、木を炊く煙を大量に浴びているのでとても醜くて、その体つきは均整がとれているとはとてもいえません。 (上巻, p. 195)

両側には住まいがあり、その前にはかなり腐敗した肥料の山があって、女性たちがはだしでその山を崩し、どろどろになるまでせっせと踏みつけています。みんな作業中はチョッキとズボンという姿ですが、家のなかでは短いペティコートしかつけていません。何人かの立派な母親たちが、なんら無作法と思わずにこの格好でほかの家を訪問するのをわたしは目にしています。幼い子供たちはひもに下げたお守り以外なにも見につけていません。人も衣服も家も害虫でいっぱいで、不潔ということばが自立して勤勉な人々に対しても遣われるなら、ここの人々は不潔です。 (上巻, pp. 200-201)

わたしは野次馬に囲まれ、おおむね礼儀正しい原則のたったひとつの例外として、ひとりの子供がわたしを中国語で言うフェン・クワイ――野蛮な鬼――と呼びましたが、きつく叱られ、また警官がついさっき詫びにきました。 (上巻, p. 240)

日本人は子供がとにかく好きですが、道徳観が堕落しているのと、嘘をつくことを教えるため、西洋の子供が日本人とあまりいっしょにいるのはよくありません。 (上巻, p. 272)

 

ヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケ『長崎海軍伝習所の日々』

日本人がその子らに与える最初の教育は、ルッソーがその著『エミール』に書いているところのものと非常によく似ている。多くの点において、その教育は推奨さるべきである。しかし年齢がやや長ずると親たちはその子供たちのことを余り構わない。どうでもよいといった風に見える。だからその結果は遺憾な点が多い。 (p. 202)

 

エドワード・S・モース『 日本その日その日 』

人々が正直である国にいることは実に気持がよい。私は決して札入れや懐中時計の見張りをしようとしない。錠をかけぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、日本人の子供や召使いは一日に数十回出入りしても、触ってならぬ物には決して手を触れぬ。 (1巻, p. 34)

いろいろな事柄の中で外国人の筆者達が一人残らず一致する事がある。それは日本が子供たちの天国だということである。この国の子供達は親切に取扱われるばかりでなく、他のいずれの国の子供達よりも多くの自由を持ち、その自由を濫用することはより少なく、気持のよい経験の、より多くの変化を持っている。 (1巻, p. 37)

日本人の清潔さは驚く程である。家は清潔で木の床は磨き込まれ、周囲は綺麗に掃き清められているが、それにも係らず、田舎の下層民の子供達はきたない顔をしている。 (1巻, p. 55)

仕事をしていると男、女、娘、きたない顔をした子供達等が立ち並んで、私を凝視しては感嘆これを久しゅうする。彼等はすべて恐ろしく好奇心が強くて、新しい物は何でも細かに検査する。 (1巻, p. 154)

 

パトリック・ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)本の紹介 『日本の面影』

そのとき私は、それらの人々の足が、なんと小さくて格好がいいかに気づいた。農民の日焼けした素足も、ちっちゃなちっちゃな下駄を履いた子供のきれいな足も、真っ白い足袋を履いた娘たちの足も、みんな同じように小さくて格好がいい。足袋は、親指のわかれた白い靴下のようなものであるが、牧神ファウヌスの切れこみのある白い足の上品さに通ずるとでもいおうか、真っ白な足下に神話的な香りを添えている。何かを履いていようが、裸足であろうが、日本人の足には、古風な均整美といえるものが漂っている。それはまだ、西洋人の足を醜くした悪名高き靴に歪められてはいない。 (pp. 22-23)

街道沿いでは、小さな村を通り抜けざまに、健康的で、きれいな裸体をけっこう見かける。かわいい子供たちは、真っ裸だ。腰回りに、柔らかく幅の狭い白布を巻いただけの、黒々と日焼けした男や少年たちは、家中の障子を取り外して、そよ風を浴びながら畳の上で昼寝をしている。男たちは、身軽そうなしなやかな体つきで、筋肉が隆々と盛り上がった者は見かけない。男たちの体の線は、たいていなめらかである。 (p. 51)

 

唯一太文字で記載したイザベラバードの道徳観というのは、西欧における道徳観を当てはめて違和感を感じる部分が色々あったのかなと思います。後、子供に嘘を教えるというのは一体どういうことだったのか、この文脈では分からないので、あまり深読みし過ぎない方がいいかなと思うのですが、この文言意外の記述は全て日本の子供やその教育方法を肯定的捉えています。

田舎は結構不潔で大変な思いをしていることも赤裸々に述べられてもいますが、概ね150年前の日本は、子供の楽園だったようです。

叱られたりする子供たちは滅多にいなかったようです。

私たち日本人が日本人の自然体に戻れる日はくるのでしょうか。

その時ようやくアダルトチルドレンという言葉が過去になっていくのでしょうが、その言葉を過去にするためには、現代に生きている我々がそれぞれ自分の範囲でできることの中から、過去の日本に近づけれる部分を増やしていくしかないのだろうなと思ってます。

 

 

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