ということで、朝の記事で書いたレリゴーブスについての続きの話を書いてきます。
レリゴーブス何それ?美味しいの?って思った方は、先にこっちの記事見ておいてね♪
レリゴー=等身大だと思っていた私
レリゴーブスという造語を作られた山野本さんは、この造語を作ることになるきっかけとなったアナ雪の現象を見た時に「ヤバイ!」と思ったそうです。
そして、今私たちが直面しているスピ界隈の常軌を逸したやりたい放題現象を察知し、この言葉を作られたそうです。
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かなり危険な、「Let it go」。~ありのままでは、いけません。~
私はその頃きちんとアナ雪ブームに乗っかり、そして幼馴染みと車の中で「レリゴー」と叫んだりしてましたが、全く逆の方向性を感じてました。
ようやく等身大でみんなが生きられる時代が幕が開けたのだ!と、山野本さんとは逆のプラスの方向でこの現象を捉えていました。
ですから、この後起こりうる危機的状況など全く感づいていなかったのです。
どうして、私が感づいていなかったかと言えば、当時の私は、エゴや波動を理解する自分自身の進化に夢中で、世の中全体の事が分かっていなかったのです。
ですから、レリゴーが世の中に浸透している時、私はいつもブログでお伝えしている「等身大」という意味合いでこの事象を捉えており、みんなが片意地貼らず、そして背伸びせず、素直な等身大で生きる時代がきたんだね!と良い感じのお花畑な気分でこの現象を捉えていました。
ですから、このブーム直後に書いた「地球攻略ガイドブック」ではその通りの文言が踊る項目があります。
今年「地球攻略ガイドブック」を書き直す形で発売させて頂いた「生きやすさを手に入れるための 波動とエゴの法則を書いた本」では、項目は残しつつもアナ雪の話は削除させて頂いているのですが、それは考え方が変わったからなのではなくて、今さらアナ雪の話をしてもちょっと例題として古いかなと思っただけで、根本的にはついつい最近まで、「ありのまま」の「等身大」は全てにおいて良いことだと思ってました。
ですが、それが多くの問題を起こしていると気がついた時、そこには何があるかと今一度考えるきっかけになりました。
そして、波動軸に理解の相違の問題点は語れるなと思ったので、そこについて言及していきます。
どんな言葉も波動状態によって、受け取り方が変わります。
「生きやすさを手に入れるための 波動とエゴの法則を書いた本」では、沢山波動の法則の事を書かせて頂いているのですが、その中でも個人的にこれは名言だと思っている部分があります。
それは、ここです。
どんなに良いものもそれを扱う人によって、使われ方は変わってしまうものです。ナイフをどう扱うかを決めるのは、その人の波動です。その波動によって思うこと、正しいと思うことが変わっていきます。波動の高い社会であれば、ナイフは人を手助けする道具となり、波動の低い社会では、人を傷つける道具に変わっていきます。
ナイフだけでなく、私たちの身の回りにあるものは、私たちの波動状態によって、良い道具にも悪い道具にもなります。その根本にあるのは思想でも宗教でもなく、波動です。
結局、どんな良い言葉も思想も、その人が持ち合わせる波動によって良いものにも悪いものにもなるのです。
ありのままが悪いのではなく、ありのままを受け止めるそれぞれ人の心によって、その言葉の扱われ方が変わってしまいます。
オンリーワンが悪いのではなく、オンリーワンを受け止めるそれぞれ人の心によって、その言葉の扱われ方が変わってしまいます。
当時の私は、自分のことに集中しすぎて偽スピさんたちのような行動をする人がこの世にいるとは思いもしていなかったので、
↓参考記事↓
いわゆるレリゴーブスたちが増殖するきっかけにアナ雪がなるとは思いもしなかったのです。
そこにあるのは、波動の違いによる自然想起の違いが挙げられます。
低波動は個人を尊重し、高波動は全体を尊重します。
以前より、波動によって人の想起に大きな違いが現れ、言動に大きな違いが生まれるということは書籍でもブログでもお伝えさせて頂いております。
( 図の詳細→☆ざっくり説明☆波動に関するQ&A編【図解式】)
低波動の人たちは、個人を特別に思う気持ちが強くなるため、常に孤独と隣合わせに生きていくのですが、
高波動の人たちは、個人を特別に思わなくなり、全体の一部として自分がいることを当たり前に思え、その上で自分のやるべき役割を全うする生き方をするようになります。
高波動と低波動の意識の境目にあるものこそが、世界を○で捉えるか△で捉えるかの違いです。
戦後社会は△の形をしたピラミッド型社会が幸福に導く社会の形として推奨され続けてきました。
結果、引き起こしたのは、多くの心のトラブルと民度の低下です。
確かに戦後社会の日本はある種エコノミックアニマル化することで(△の住人の指導を取り入れることによって)、経済大国に返り咲いたことになってますが、戦後世代はそのように思わされているだけだろうなと、私は思ってます。
なぜなら復興を遂げてくださった祖先たち世代は、教育勅語などをきちんと学んだ○の世界の中に生きており、その概念の上で社会を運営していたからこそ、GHQなどに突然押しつけられた△の形をしたピラミッド型社会の中で生活しなくてはならないと分かりつつも、体は○の世界の中で生きていたのだろうと思うのです。
だからこそ、日本の復興は奇跡とも呼べる早さで立ち直れたのだと思います。
そうでなければ、バブル経済がはじけた後の散々な経済状況は起こりうるはずもないなと私は思ってます。
団塊世代を皮切りに戦後世代は幼少教育の段階から△の世界が正しいと学校や親から植え付けられます。その傾向は年々強固となり、その概念がキツくなる人ほど、自然と波動低下を引き起こしていきます。
そして、△の世界が心と身体に馴染めば馴染むほど、人は自分の事しか考えられなくなっていき、周りが見えなくなり、如何に自分が特別な存在なのかを主張することに明け暮れることになります。
戦後から現代に近付けば近づくほど、日本の民度が低下し、そして自分の事しか考えられず、さらに社会環境が停滞しているように感じる状況が続いているのは、結局△主体の世界で日本人が生きているからだろうなと思います。
そして、△の世界にいるからこそ、波動上昇ができずに多くの人が苦しんでいるのだろうと思います。
つまり、△の世界を主体で生きるか、それとも○の世界を主体で生きるか、この感覚の違いによって、レリゴー一つとっても捉え方が変わります。
△の世界で生きる人は、世界の中心に自分がいる(いなければならない)という考えが強いので、「ありのままに」生きることが、単なる我が儘な行動と直結していきます。
○の世界で生きる人は、世界の中の一部に自分がいるという考えが強いので、他者と介在した上での「ありのままに」を自覚することができます。そのため、嘘偽りのない等身大の自分で努力してみようという気持ちになります。
日本は元々○の世界の中に生きていました。
ですから、そとはかとなく○の世界を求めてしまう気持ちが常に沸きます。
ですが、多くのレリゴーブスたちは、△の世界観の中で○を求めるので、より強い違和感を感じる不自然な言動が横行することになるのでしょう。
あなたは、○と△、どっちの住人?
自分が今、△の世界で生きているのか、○の世界で生きているのか簡単に分かる方法があるので、やってみましょう。
日本の国の一部に自分がいる
この言葉を聞いてどう思いますか?
違和感なく「そうだ!」と思える人は、概ね○の世界で生きていると思います。
この言葉に違和感が感じる人は、どんなに世界平和を祈っていたとしても△の世界の中にいます。
グローバルイズムで固められている平和や多様性というのは、全て△の世界の中の話なので、必ずレリゴーブスを生み出します。
波動によって物事に対する想起の違いの大きな分岐点は、社会の捉え方を○と見るか、△と見るかの違いによるものなのだと改めて思いました。
そして、自分自身の言動が○の世界観に馴染む努力をしていかない限り、人の波動は向上しきれないのだなと改めて思いました。
色々波動の話をしてきてますが、一番大きな分岐点は△の世界観から抜け出すことだったのだと改めて思ってます。
△の世界なんて、頑張れば頑張るほど苦しいだけなのにね。
多くのスピリチュアルリストたちは、自分が△の世界にいることにも気がつかず、むなしい努力をした挙げ句に、レリゴーブスと罵られ、人に嫌われるという人生最大の不幸を繰り返しているのだなと改めて思いました。
○の世界、つまり循環の世界の住人であることを思い出していくことが、幸せに生きるための秘訣だと思います★
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今日のリンク集
かなり危険な、「Let it go」。~ありのままでは、いけません。~
おはようございます。今日も分かりやすくて読みやすい記事をありがとうございました。
毎朝竹久様のブログを読むことが楽しみで、日課となっております。
以前の記事と今日の記事を読んで、職場で毎日感じる居心地の悪さと違和感の正体に気づかせていただけた気がします。
私の職場は、各部署の構成自体が、他職種の人で成り立っており、みんなが○の視点で仕事をすれば素晴らしい仕事ができるのでしょうが、悲しいかな△で成り立っているのが現状です。現に、暗黙の了解でみんな各々の資格や役割よりも役職重視で仕事を進めています。仕方ないことなのですが、みんなが教育勅語を知っていて当たり前のようにその精神の元に仕事が出来れば職場が、日本がもっと良くなるのに、なんて思わされました。
あと、もう一点思ったことがありまして、心○さんにしても、さと○みつろうさんにしても、凄く昔のブログは結構まともなことが書いてあったりしていて、(ごめんなさい、元は信者でした。。。)奴らの肩を持つ気はサラサラ無いのですが、もしかしてあの人達も会社と社会の△構成が息苦しくなって、抜け出して同じような思いをしている人達を救いたい!!、、、なんてエゴまみれの思いで活動を始めた結果自分が△の頂点に君臨している、、、そんな感じなのかなぁと勝手に思いました。
と、まぁ他人のことはさて置いて、まずは私自身もエゴの正常化に励もうと思い今日も目の前の仕事や今に打ち込もうと思います。いつも素晴らしいブログをありがとうございます。これからもよろしくお願い致します。
おはようございます。
はにわさんの推測に私も同意です。(あの人達も会社と社会の△構成が息苦しくなって、抜け出して同じような思いをしている人達を救いたい!!、、、なんてエゴまみれの思いで活動を始めた結果自分が△の頂点に君臨している、、、そんな感じなのかなぁ)
結局、今いる場所で克服せずに、新たな場所で新たな考えでと思ってやっていても、人って不思議なもので次第に元々いた環境を自分自身が創り出してしまうのです。
だからこそ、環境を変えよりも、極力今いる場所を楽しくできるように自分自身が努力して今いる場所の雰囲気を変える必要性があると感じています。
会社という環境にはストレスはつきものですが、一日のほとんどの時間をそこで過ごすのですから、できるだけ楽しくした方がいいし、それは自らの小さなコツコツとした努力で可能な部分も沢山あるんじゃないかと私は思ってます。
それでは今日も楽しく生きていきましょう♪
日本の国の一部に自分がいる
違和感ゼロで清々しくその言葉を使えない自分に愕然としました。
本当の日本をまだ曖昧にしか知らず幼い頃教え込まれた日本は戦争をした、昔から野蛮な国という話が骨の髄まで染み込んでいるようです。
自分の国を素直に好きだなんて変、周りの人に極端な思想の持ち主だと思われたらどうしようと思うと、本当の日本を学ぶことすら恐怖を覚えるこの現状。
アイドルやスポーツやショッピングが好きな事は素直に言えるのに。神道や日本史に興味があると言えないのは、大多数の日本人が偏った思想をベースに生きているからなのでしょうか。
ゆりさんのブログや知己の神職さんのブログで沢山の事を学ばせて頂いておりますが、なかなか生活の中で日本を学ぶ機会と勇気が出ず…。
ただ、直近のゆりさんのブログを読み、以前ゆりさんがおススメされていた竹田研究会に参加して見ようかなと考えております。
が、とても怖いです!変な物にかぶれたって思われたらどうしよう!いや、レリゴー界隈の方がよっぽどおかしいんですけどねw
でも、日本の国の一部に自分がいる事を誇りに思って生きていきたいので、一歩踏み出して見ようかと思います。
ゆりさんのお陰です。
ゆりさんいつもありがとうございます。
めちゃくちゃその気持ち分かりますよ。
実は数年前まで私も同じような違和感と苦しみを感じていました。
だから、平気でパヨることができて、権力打倒こそが平和の兆しであると迷わず思っていました。
匿名さんがおかしいのではなく、戦後世代のほとんどは「日本の国の一部に自分がいる」ということに違和感を覚えながらも、みんなと仲良くしなきゃとか、現実的には無理のある矛盾を抱えています。
だからこそ、みんな根無し草のような生き方になり、腹を据わらせた勇気のある生き方ができなくなります。
スピリチュアルにはまる人は、根本的には攻撃的でない人が多いでしょうが、自分がデラシネ(根無し草)であることに気がつかず、耳触りの良い言葉に翻弄されていくので、最終的にはどうしようもない面倒くささと非常識さを兼ね備える人に成長していきます。
私も匿名さんと同じように、国体・国益・国防・国力などなど、とにかく国を主体に考えることが気持ち悪くて仕方なかったのですが、それは単なる戦後洗脳の賜だったと抜け出した時に気がつきました。
この洗脳が抜けると、日本人らしい○の世界で生き直すのがとても簡単になります。
小さなこと、できそうな事からはじめて見てください。応援しています!
レリゴーブスって言葉受けました。青春もぐりって言葉も(笑)レリゴーが流行した時、お仕事で関わる小学生達が歌って踊ってたのを思い出します。大人の女性にも、歌うだけでなく精神的にもレリゴーブームがあった事をこちらのブログで知りました(驚)レリゴーブスの生態を読んでいると、韓流にはまっている友人を思い出しました。現実逃避っていう部分ですかね。
韓流にはまって、物凄くお金費やしてる方達も、スピにはまって不思議なイベントにお金払ってる方達も、ある種エネルギッシュだなぁと思います。
私には無理です(笑)
おはようございます。
レリゴーな人たちと、韓流に嵌まってる人って傾向と対策として確かに似ていますよね。
隣の芝が青く見えて仕方ないのだろうなと思います。
隣の芝の現実が見えていないから、理想と妄想に浸れるんですよね。
気をつけていきたいですね。
ゆりさん、こんにちは!
納得の記事ありがとうございます。
ふと思ったのが某委員長(教祖様)
移住先の島の中で島民と関わらず一人で生きて行くと誓い、今は周りの人に色々言われるから一人で閉じこもってる状態と聞きました。
ホントかどうかはさておき、これって△の世界の末路ですよね。
まさにアナ雪、「ありのまま〜♪」と歌いながら氷の城に閉じこもった状態。
この方が◯の世界に行くには自分のしてきたことを素直に見つめ、謝るべき人に謝り、島民の人に頭を下げて畑のやり方を教わったり島に関わるお手伝いを自ら進んでやったりしてコミュニティの一員としての自覚を持つことかなと私なりに考えました。
では自分はどうかなというと◯に憧れながら△に片足突っ込んでもがいてる感じですかね。(^-^;
もう近道は遠慮しますが(*_*)
ちょっとずつ変わって行けてると信じています。
私はまずは主婦として家庭のお役目をしっかりこなそうと思います。
ちよさん、こんにちは!
子宮で宇宙と繋がった結果、島民に嫌われて引きこもりwwwwwwwwwwww
子宮系の人たちは、この現実的な地滑りを客観的に見る事ができないのでしょうが、笑えないけれど爆笑の現実ですよね。
みんな全部が完璧にできることはないけれど、できることとできないこと、得意な事と苦手な事を理解し、その両方と上手く付き合いながら、今日も一歩前に進める生活になったらいいですね。
それでは今日も楽しく生きていきましょう♪
「ありのままに」
一見、良い言葉のように思えますし、別におかしなことにも思えません。
でも、竹久さんが書いているように、「どう受け取るか」によって、全く違ってきますよね。
自分もtwitterにちょうど先日書いたところだったのですが、「ありのままの自分を認め」そこがスタートになるのと「何をやっても良い」というのは似ているようで全く違います。
簡単な例で言えば「男に生まれたかった」とか「大富豪の子どもに生まれたかった」とか「もっと美人だったら」とか言っても、それはそうではない自分を認めるしかないですよね。その上でどう生きていくかを考えていくことが必要であって、妄想の中に生きていてもしかたないです。
「もし~だったら○○なのに…」という生き方をしないのが「ありのままに生きる」ということであるはずなのに、「なにをやっても良い」「今のままで良い」というのは、怠惰な生き方でしかないですね。
そう、その人が持ち合わせる視野の広さと心の領域によって、同じ言葉でも受け取り方はとても違ってきます。
言葉って億劫ですね(>_<) ですが、何かと低波動な人たちの考えの基準に言葉を合わせていったら、それはそれでまたおかしなことになるので、そういう人もいるという割り切りをもって、視野の広い世界の中で生きる言葉を伝えていきたいなって思います。 それではこれからも宜しくお願い致します♪
結局、レリゴーブスさん達は、(ありのまま、今のまま)が嫌でもがいてらっしゃるように…
その通りですね。
良い指摘だと思います(笑)
アナ雪のあのシーンでいうありのままの~♪というのは、本当は好きだけど隠さなければならなかった才能(凍らす魔法)を解放するということだったかと思います。
城に閉じこもったけど最後は周囲と調和してポジティブな能力として進化するのですが、本件のレリゴーブスでいうところの“ありのまま”というのは、単にスピリチュアルが好きというだけの趣向(しかもエゴによる)であって、オリジナリティがなく誰かが提唱したものについていってるだけなのに、少数派なだけに特別感があり陶酔してるところが情けなく救われないと思いました。
エルザが解放する才能が魔法というところが、見えないもの好きになレリゴーブスを勘違いさせるのに絶妙なところだったかもしれません。(自戒もこめて、、)
山野本さんや美輪さんがおっしゃるありのままの解釈は映画を見てないから誤解してるんだなと思ってたのですが、現実のレリゴーブスたちの現象を見て直感したことだったんですね。。さすがです。
△の世界に生まれ育ちましたが、○の歴史をもつ日本人であることを大切に○の世界を意識して生きていきたいです。
これからも更新楽しみにしております!
私もrinさんと同じような解釈をしていたので、この言葉の浸透に危機感を感じていた人たちの真意が分かるのにとても時間がかかりました。
同様なことは、「世界に一つだけの花」にもいえます。
今ある場所で自分らしく精一杯生きていくだけのことをはき違えると、様々な問題が生み出されるものですね。
日本人らしく生きることは、△の世界しか知らないで生きてきた地球の多くの土地の人たちにとっての希望になるはずだと私は考えます。
そのためには、単なるグローバルな多様化という名の画一化に騙されることなく、気高く生きていきたいですね。
どうぞこれからも宜しくお願い致します。
世界に一つだけの花もですか!
薄ら寒いものを感じていたのですが、そういうことでしたか。
人間が人工栽培の切り花に例えられてるのが怖かったんですが←ここじゃないですね(笑)
オンリーワンを勘違いすると意味が全然違いますね…
勉強になります(>_<)
ありがとうございます。
私は、花屋の店先に並んだ花のことはスルーしてました(笑)気がつくとそれはそれで怖いですね(>_<) こちらこそありがとうございます。
こんにちは。
匿名さんのコメントを読んで、泣きそうになりました(´;ω;`)
悲しいことですがものすごく気持ちわかります。。。
『日の丸の旗』とういう歌をご存知ですか?
「ああ美しい日本の旗は~♪」というフレーズがお気に入りで、大好きな歌だったのですが、前記事のコメントでお伝えした北教組の担任は、この歌を全否定して「日本の旗は美しくない!」と言い、天皇陛下や日本の全てが悪いこととして、小3の子どもへ話したんですよ、、、。
悲しかったなぁ、、、。匿名さんもこんな直球は無かったと思いますが、じわじわと悲しい気持ちを植え付けられてしまっているんですよ。
私は、こんな悲しい気持ちになりたく無いって理由で、堂々と愛国についてを話せなくなりましたから、、、。
当時の私は、まさか反日になるよう教育をされているとは夢にも思っていなかったですし、素直だったから、葛藤から不調になったんですよね。
覚えていないのですが、学校へ行きたくない理由を当時母に「先生が嫌い」と言っていたそうです。自分の記憶では、先生好きだったんですけどね(^^;
北教組て、本当にひどい組織で、学校の教員がストライキをして、子どもたちが授業を受けられないというトンデモを行うような団体!!
最近は聞きませんが、私が子どもの頃はニュースによくなってました(^^;
きっと父と母は、そんな学校へ通わせたくなかっただろうな、、、
でも、良い先生もたくさんいたのは確かです!
前記事でお答えいただいた、竹久さんの教育についてのお考えは同意しかありません。
お知り合いの方は、とても素敵な先生ですね!
教わっている生徒さんだけでなく、保護者の方も幸せです!
そういう先生がいらっしゃると、安心して学校へ通わせられますので(^^
私は大学生と中学生の娘がいます。
担任で保護者と学校の関わり方はかなり変わると感じました。
私が受けた直球はありませんが、それって、先生のエゴだよ!!って担任いましたから、、、。
子どもを守る必要があると感じて、PTAの学級代表なりました(^^;
教科書はすぐには変えられません。
でも、子どもたちが読む力と考える力を付けることで、反日教育の呪いからある程度は回避が出来るのではと考えています。
何故そう思うかは、自分の経験談と、長女と話していて、ネットのお陰か、今の10代は30代後半以上よりもちゃんと歴史を知っていると感じるからです。
竹久さんが前に記事にされていましが、ネットが発達した現在、私たちが子どもの時には想像できない情報量があふれていますよね。そして、ネットリテラシーを高めるためには、読んで考えて、調べるが自然と必要となります。
なので、今の若い子は、〇の感覚を獲得しやすい環境にあると思っています。
ここを使って、小中高向けのワークショップなどを開催して正しい情報を広められないか、、、などと時々妄想しています(^^;
歪んだ教育を戻すのは大変な作業なので、将来自分の得意分野使って、入り込めそうなところから、日本人としての形を作って行くお手伝いが出来たらよいなと時々考えています。
出来ることからコツコツと、日本の未来を信じて日々を歩いています。
戦後教育が如何に歪んでいるのかというものが、公に口にできるようになっただけでも、前進かなとも思いますが、お子様の現場で直面する教育の実態は憂いを感じます。
また、リラさんのように子供たち全体を捉えて行動するお母様もいれば、一方で自分の子供のことしか考えずに自己主張を繰り返すいわゆるモンピアなお母様もいることでしょう。
いろいろ想像するだけで、「恐れ入ります」という気持ちになります。
本当に歪んだものを直す作業というのは、それぞれがお金や名誉や見返りを放棄した中で、それでも地道にコツコツが要求される繰り返しだと思います。
でも、これが続くのはご勘弁です。
私も、出来る事をコツコツやっていきます。
これからも宜しくお願い致します。
はじめてコメントします。
いつも楽しく読ませてもらっています。
今回の記事を読んで、映画で描かれているアナが歌うシーンは大好きなのに、なぜかそのブームには寒いものを感じていた理由が分かりました。
私も、あのシーンは今まで期待に応えて自分を抑え、コントロールし続けていた状況からの解放だと解釈していました。
そして、これからは自分以外の何者かになろうとするのではなく、今のありのままの、現状の自分を自分がまずは認め、大切にして生きるのだという決意のようなものを感じていました。
さらに言うのであれば、あのディズニーがこういう女性像を描くようになった、時代は変わっているのだなと感慨深く受け止めたシーンでもあります。
なのになんで「レリゴー」が気持ち悪い(あ、言っちゃった)のかよく分からなかったんですね。
そしてそれが「世界にひとつだけの花」にもつながるのが良く分かりました。
それこそ腑に落ちましたよ!
ありがとうございました。
いつもお読みくださりありがとうございます。
私もさとみさんのコメント「今まで期待に応えて自分を抑え、コントロールし続けていた状況からの解放」を読んでハッΣ(・ω・ノ)ノ!としました。
まさに私もそうで、期待に応えることを繰り返しているうちに自分らしくない自分になってしまい、その疲弊していく気持ちから脱出したいという思いをすごく抱えていたので、同じような受け止め方をしていたのです。
レリゴーブスは、多分期待に応えるとか言うことをする時点で、私ではない私にはなりそうなある種の人権重視的な考え方に染まっているように思うのです。憲法に書かれてある自由と平等、人権というものを権利として悪用しているように思えるのです。そこがおかしさを作り出す要因になっているのかなと思いました。
それではこれからも宜しくお願い致します♪
今日も楽しく生きていきましょう☆
はじめまして。いつも記事を読んで勉強させていただいております。
なんというか、類友というか、皆様さすがに高波動ですね。私は心○なんぞにお布施したところで、現実変わらないから!と思うので、彼らのカモにならずに済んでいますが、現実を認められない、怠惰だ、と言われると、仰る事はごもっとも、でも肉体的にしんどくて生きてるのも精一杯。皆様決して悪意はなく、ご自身も頑張っているからこそ、と思いつつも、非常に”上から”言われている感じがして、何だか悲しくなります。怠けているように見えるのか、どうして皆そんなに強く生きていけるのか。今にも離脱寸前な状態で、かろうじて生きている。その弱さを責められているようで。波動を高めるしかないのでしょうね。
いつもお読みくださりありがとうございます。
私もタマさんのような気持ちを沢山抱えて生きていましたよ。ですから、タマさんの気持ちすごくよく分かります。
私は、未来を描くことを敢えて捨て、さらに生きることへの執着を手放しました。すると、未来への不安がなくなり、生きている今の時間だけに気持ちが集中するようになれました。
それから、強くなくちゃいけない、立派でなくてはならないという思い込みを捨て、弱い自分を認め、その等身大のまま生きていこうと思い直したら、以前より恐怖が減って、強くたくましくなったように思います。
強くなろうとするのではなく、人間なんて儚くてたいしたものではないという事が腑に落ちてくると随分生きやすいです。
私とタマさんの違いはそれだけだと思います。
どうぞこれからも宜しくお願い致します。
>強くなくちゃいけない、立派でなくてはならないという思い込みを捨て、弱い自分を認め、その等身大のまま生きていこうと
ここなんですよね。
自分自身をどう認めるか、そしてその中で今置かれている状況の中で自分の役割を果たしていくか
そこを変に履き違えてしまうと、単なる暴走、レリゴーブスのできあがりです。
ありのままでいいというのが、自分自身の存在・価値をそのまま認めて生きていくのか、単なる欲望・感情のままの行動を「ありのまま」と言っているのかで、生き方が全く変わってくると思います。
いつも竹久さんの記事にはインスパイアされていますが、言葉にしづらい部分をわかりやすく言葉にしたがるのはコンサルの性なので(笑)、そのうち自分のブログでもまた少しまとめておこうと思います。
今の自分の目標は、そのうち竹久さんとの公開パネル討論会をするか、共著を出版すること(笑)
こちらこそいつもありがとうございます。
私もひでぽんさんとそういう事したいです(^_^)
もう今年は終わりそうですから、来年くらいに実現したいですね!
どうぞこれからも宜しくお願い致します☆
いつも楽しくブログを拝見させていただいております。
「日本の国の一部に自分がいる」
という言葉を聞いて、
私は今現在日本某所にいるので(海外にはいないので)、
日本の国の、とあるところに、自分がいるのだから、
「日本の国の一部に自分がいる」
・・・これは、単なる事実じゃない?
と思いました。
ということは、私は概ね○の世界で生きているのでしょうか?
それとも、なにか「日本の国の一部に自分がいる」という言葉の意味をとりこぼして誤解していたりするでしょうか。
逆に、違和感を感じる方が、なぜ違和感を感じるのか、どのあたりに違和感を感じるのかが、よくわかりません。
もしよろしければどこかで解説をつけていただけると、とてもうれしいです。
ひとつの言葉について、人によって意味のとり方が違うのですね。
ちなみに、レリゴーの歌をエルサが歌うシーンについて、私は、
「エルサ、それは単なる開き直りじゃない?大丈夫?結局お城にこもるんでしょ?それでいいの?」と思っていたので、
「レリゴーブス」という単語はとても言い得て妙だなぁと思いました(笑)
いつもお読みくださりありがとうございます。
あの記事を書いた時に、このような質問を頂くことは当然あるだろうと思っていたのですが、質問がきた時点でお答えしようと思っていたので、質問してくださったことを有難く思っています。
ありがとうございます。
あの質問だけで、絶対に○とは言い切れないとは思いつつも、あの質問をしたのは、分かりやすく絶対に△の人が見極められるなと思ったからです。
特に、あの記事ではスピリチュアルな事に没頭している人を念頭において書いていたので、そういったカテゴライズの中では、見極めれるかなと思いあの質問にしました。
スピリチュアルに没頭する人たちの多くは、世界平和を願っており、みんなが和になっていくような考えになれば平和が訪れると考えていると私は推察しています。
しかしながら、その和を持続するために一番大事な、日本という存在を軽視しているケースが多く、日本という存在については空白のまま、世界を平和に導こうと考えているからこそ、明後日な行動を繰り返していると私は考えます。
それは根本的な和の概念を外した、いわゆるグローバルニズム(国境のない世界が平和となる)に頭が汚染されているため、○のように見えて△の世界を固持しているということを、まず気がついてほしいと思い、あの質問にしました。
また、あの言葉に否定的な気持ちを感じてしまう人の多くは戦後教育によるものだと推察しますが、仰る通りの単なる事実にも、反日教育がしっかり体の中に組み込まれている人ほど、なぜか気持ち悪さを感じるように心が育成されてしまいます。
つまり、ありのままの事実すら、事実として受け止められず、どこか気持ち悪さを感じやすいのです。また、こういう状態だと事実誤認を繰り返し、現実を受容れにくい心身を作る動機に繋がっていきます。
もちろん仰る通り、「日本の国の一部に自分がいる」と理解していても、二元論で固められた私たちの概念においては、それだけで絶対○とは言い切れない環境はあるのですが、そこが自覚できてなければ尚のこと「○だと思っている世界は実は△だ」ということになっていきます。その誤解をまずは認識してもらうための質問でした。
本当に問い合わせてくれてありがとうございます。
「エルサ、それは単なる開き直りじゃない?大丈夫?結局お城にこもるんでしょ?それでいいの?」
これ、爆笑しました。
同じ映画を観ていても、こんなにもあのシーンに対して思うことは違うものなのだなぁと勉強になります。
それではこれからも宜しくお願い致します。
お礼が遅くなってしまって申し訳ありません。丁寧なコメントをありがとうございました!
「日本の国の一部に自分がいる」ということに違和感がないことは、この世界を絶対的に△と認識しているわけではない、というだけなのですね。
クロ(絶対的に△)ではないが、グレーである可能性もある、という感じでしょうか。
なかなか自分がどの程度○として世界を認識できているのか不安ですが、おごり高ぶらずに生きていきたいと思いました。
竹久様のブログや本を今後も楽しみにしています。
こちらこそ、先日は気の利いた質問をしてくださり、ありがとうございました。
クロ(絶対的に△)ではないが、グレーである可能性もある、という感じでしょうか。
この解釈で大丈夫です!
それではこれからも宜しくお願い致します。
いつも楽しく拝読しております。
レリゴーブスに思わず吹いてしまった1人です(笑)
友人がレリゴーブス&ゾンビ化してしまっていて、会社を首になり、まともな人を次々に切って、気遣いも優しさも失ってしまっていたので、なにがあったのか??と心配していましたが、一連のブログを拝読して経緯が良く分かりました。ありがとうございます。
レリゴー自体は等身大で、自分らしく、、、、という意味で良いと思っていたのですが、そこからブスになってしまう人もいるのだと実感しています。自分らしさと、自己中心的な我儘、エゴに囚われた生き方をはき違えてしまうんでしょうね。精神が未成熟で未発達なまま彷徨っているというか。
本人に指摘したらキレられましたが(汗)
本当にいつも読み応えのあるブログをありがとうございます。
いつもお読みくださりありがとうございます。
私もようやく記事にしながら、改めてスピ系の人たちの痛々しさの理由が分かってきたように思います。
等身大と言われた時に、それまでそれなりの努力をして生きてきた人たちは、無理して大きく見せたり強がったりするのをやめて、本当の自分の大きさに戻ろうと思うのだと思います。
逆に、今までの人生で認められない感覚ばかりを詰め込んできた人は、自由と権利を主張する時代がきたと思ったのだと思います。そもそもの自己評価が現実で与えられている評価よりも高い人に起こるんだろうなと思います。
私が社会人経験で得た感覚で言うと、「認められたい」意欲が強い人というのは、全体を考えるのではなく自分への主張ばかりが大きく、扱いにくいと感じさせる人が多かったように思います。
認められたいという意欲だけは伝わるが、自分の仕事の範囲を自分の中で決めるので、その範疇から少しでも飛び出すと文句を言うなどということが繰り返されるので、こっちも仕事を振らなくなります。
そういう繰り返しをしているから認められるチャンスを自ら棒に振っているのに、なぜか「こんなに頑張ってるのに認められないのはなぜだ!」と威圧してきます。
柔軟性って大事ですよね。
それではこれからも宜しくお願い致します。
こんにちは。
今回もまた一つ一つ考えながら読ませて頂きました。
「受取方」本当に大事で、最近は仕事でもそういうった部分に焦点が当たる事が多いです。
私はもともと集団行動ができないタイプで、かなりネガティブ思考だったので、「アナ雪」は松たかこ歌うまいなぁ~~くらいしか思ってなかったので映画は見る気にはならなかったです。流行りに乗るの嫌だみたいなあまのじゃくだったので(^^;)
なので、映画館でみんなで合唱のニュースを見たときに、あまりの気味悪さに背筋が凍ったんですが、友達は「え~いいじゃん!楽しいよ絶対!」ってキラキラした顔で言うんですね。その純粋に楽しそうに言ってくる姿が眩しくて眩しくて(笑)
その時は、「あぁいいなぁ、こんなふうに普通に楽しめる人もいるんだなぁ」って素直に思ったんです。
だから、なんだか否定している自分がいけないのかな?と不安にもなりました。
当時もちょうどスピ系の本などを読んでいる時でしたから、「世の中が変わってきたんだなぁ」と思いつつ、「ありのまま」を「自分が良ければなにしてもいいじゃん」って履き違えてる人がいたら嫌だなぁとか、勝手に思ってたんですよ。
今思えばただ嫌悪感があるから見てないだけで、楽しんでる人達を勝手に解釈して批判していた自分も、人と違う自分はちょっと特別だとか思っていた部分があって結局はレリゴーに翻弄されてたブスの1人だったように思います。
おばあちゃんのように「そうかい、そんなものが流行ってるんだねぇ」と言いながら掃除をしてるくらいの気持ちでいれる毎日でありたいなと思います。
いつもお読みくださりありがとうございます。
本当に受け取り方って人それぞれなんだよなぁと、私も今回特に考えさせられています。
「人と違う自分はちょっと特別だとか思っていた部分」って、自分で自覚するのに繊細さが必要な作業ですよね。気がつかれたことを純粋に凄いなと思いました。
ホント、ばあちゃんのように受け流すのが一番ですね。
ただ、ガチでこのタイプを受け流すと、増殖してこっっちに迷惑がかかるから、御代変わりまではしっかり注視しないとなと思ってます。
こういう面倒くさい感じ、早く終わりにしたいですね。
それではこれからも宜しくお願い致します。
タマさんのお気持ち良く分かるな〜って思いました。私に波動の高低はわかりませんが、私はまあ、高波動ではないですよw
みんなすごいな、私には分かんないなあって思うと拗ねたくなりますよね、それで、私はこんなに不幸で不公平なめにあっているから、そのせいで分かんないんだって思いますよね。
そのうち、あんた達も同じ場所に引きずり下ろしてやる、私と同じ立場になったら同じように不幸になるに違いないんだからって思いたくなると思います。
私がそうでしたから。上から目線なんかじゃない、そういう気持ちの時は自分が相手を下から睨め付けているだけなんですけど、分かんなくなっちゃうんですよね〜。
世の中みんなちょっとずつ不幸で不安で苦しいんですよ。あえて言わない人だって沢山いる、だってどうしようもないから。そういう人にも思いを馳せて、ちょっとずつの遠慮が配慮を生む日本の文化が、私は好きです。
きっと、ゆりさんのブログにコメントできたタマさんなら、過去の私ほど落ちぶれる事は無いと思います。大丈夫、淡々と思い通りにいかない日々の中で苦しみと不安の中にすらある美しいものを集め続ければ今を生きることが出来るようになってくるんじゃないかなあ、とか、まあ、私も今を生きてるかっていうと微妙なんで、一緒に頑張れたら嬉しいです。
日本の国の一部に自分がいるって言葉の違和感についてですが、私自身は
1.日本=自分としたときにそれを誇りに思えるか
例)日本を人体に置き換えたときに、自分が細胞の一つであると言われて嬉しいかどうか。細胞としての役割を果たして人体に生き生き健康でいて欲しいか
2.日本の為に自分がどうなってもいいから尽くしたいと心底思えるか
と、捉えたため違和感をかんじました。自分がよく知らない人の人体の一部だって言われて納得して心底細胞としての役目を果たしたいとは思えないですよね。
主体日本、客体私って感じです。
客観的事実としての、つまり観測者視点の私が存在する、
世界の中の日本という国に私という存在がある。とも解釈できると思いましたが、そちらを採用しませんでした。
まあ、そちらを採用しても、日本という国の一部に自分が存在する、の「一部」に重きを置けば違和感ない方も、「日本」に重きを置いた場合は違和感を感じることがあるかもしれませんよね。あ、この場合は、世界の中の日本と言う国、という認識ではなく、あくまで視点は、日本のみ。である必要がありますけど。ああ、国をどう捉えるかにもよるかなあ。言葉って面白いですね。
だからこそ、人によって意味のとり方が違って面白いんですけどね。
ちなみに、レリゴーの歌をエルサが歌うシーンについて、「エルサ、それは単なる開き直りじゃない?大丈夫?結局お城にこもるんでしょ?それでいいの?」と私も思ってましたw。さらに、お前がありのままでも、いや、国民どないすんねん、お前が良くても他の人どないせいっちゅうんじゃw無責任ヒーローすぎって思ってましたw良かった私だけじゃなくてw
私も私を特別視しないようにしないとですね、なんだかこのコメントも、自意識過剰な自己顕示欲な気がしてきました。
ゆりさん、長々と失礼致しました。ゆりさんのディスカッションいつも楽しく見ております。また、ゆりさんのお陰で色々踏み出してみようかなと思っています。
もし、不適切、ゆりさんのブログに相応しくない、もしくは不利益でしたら削除をお願い致します。
今後も楽しみにしております。
いえいえ、とんでもない!素敵なコメントをありがとうございます。
私のあの質問は、他のコメント内でも暴露させて頂いている通り、大変粗のある質問ですから、皆さんの中に新たな疑問を作り出す場合もあれば、もちろん解釈がずれる部分があるはずです。
それを皆さんが伝えてくださり、自分の思いを口に出してくれることで、粗があったはずものものが補完していく作業に繋がっているように勝手に思っています。
だから、ありがたいです。
自分の思いを素直に口にして、それをみんなで補完していく作業を繰り返しながら、道を作っていけたらいいですね。
どうぞこれからも宜しくお願い致します。
こんにちは^^
ここ数日、ゆりさんの記事と、いろんな方のコメントを読むのでせいいっぱいながら、楽しく読ませていただいてました。
やはり、いろんな視点での意見を読むのは楽しいです!!
前回コメントで、好奇心旺盛な文学少女のイメージで、かつ菅原孝標女を思い浮かべると言っていただき、思いもよらなかったので、少々浮かれてしまいました(笑)
日本の一部というのは、人に寄って解釈が違うだろうし、イメージしにくいこともありますよね。
でも、それでも、ある程度の的を絞って、後から補完していけばいいというお考えは、「なるほどなぁ」と思いました(*´ω`)
わたしの考えとしては、日本=家族のイメージに近いです。
確か、竹田恒泰さんが、「竹田恒泰チャンネルで話されていたかな?」と思うのですが、今の自分が生まれてくるまでに、両親や祖父母はじめ大勢のご先祖様がいらっしゃいますが、島国日本は、今の人口を鑑みて、ご先祖様がどこかで繋がっている方が多いのではないでしょうか?当然ながら、どこかで皇室の血筋とも、遠いご先祖様が繋がっているでしょう、と。
(上記は、わたしの記憶と、解釈なので、違っていたら申し訳ないのですが、、、)
それは別としても、例えば、家族の中で、お母さんが、お父さんと子供たちの間のフォローをするのに、お父さんの言葉足らずな部分を子供たちに「お父さんが考えているのはね、、、」と、お互いの気持ちを伝えあいながら、どのようにしたら、円満でいられるのか?ということに、心を砕いてる方は、いらっしゃるかと思うのです。
それって、お母さんが自分を犠牲にしているのではないと思うし、「わたしって偉いでしょ???」と主張する方もあまりいらっしゃらないのではないかと思うのです。
家族の中で、誰かの意見を100%聞く代わりに、他の誰かの意見が40%しか反映されていないといびつに感じますが、誰かの意見を70%聞く代わりに、他の誰かの意見が65%反映されていると「ほぼバランスが取れている」と感じるかと思います。
○の中で生きるというのは、ごく身近な家族や友達から実践していくのでいいのでは?と思います。
会社の中だと、その方の立ち位置によってはすぐに何かが変わったと感じるかもしれませんが、あまり変化を感じない立ち位置の方も多いのでは?と思うのです(わたしは、会社全体の変化を感じることはほぼありません)
ゆりさんの記事を読むようになってから気が付いたのですが、わたしのパートナーシップに対する考え方が実は○そのもので、実は自分で思っている以上に日本人的なのかな?と思うようになりました。
つまり、出会いの時点で「わたしが心地よくいるために相手が我慢しすぎることもなく、相手が心地よくいるためにわたしが我慢しすぎることもない」をベースに、「お互いができるだけバランスの良い状態で、心地よくあるためには、どうしたら良いか、どんな心もちでいたらいいか」を考え、提案をして、話をして、過ごしてきました。
(実際、母からはあなた達の在り方は、50:50な感じがすると言われたことがあります)
お互いが一緒に幸せで楽しくいるためには、どうしたら良いかと話すのは、楽しい議論で、ちっとも意見が重ならない時も当然ありますが(そんな時は、お互い違う意見なのをわかった上で、そのままにしてます。。。笑)、わたしの場合はそのまま職場での人との関わり方にとても役立ってる気がします。
また、家族の中で地盤が固まると、会社で不当な扱いを受けたと感じることがあったとしても、自分自身に対する信頼を失うことなく、腐ることもないのではないかと思います(山野本さんの過去のお仕事に対する向き合い方の記事が素晴らしくて、「よしっ!!頑張ろう!!」と思えました)
そして、心のままに、人に真摯でありたいと思い、日々過ごしていると、ニュートラルな状態であったとしても、「こんな扱いを受けるのはおかしいのではないか」と不当な扱いを受けた時は気づくし、ちゃんと腹も立つと思うのですよね。
日々ニュートラルでいることが、どんな時も腹を立てないことや穏やかでいるということではなく、おかしい時はおかしいと言うことも、とても大切だと思うのです。
いつもコメントありがとうございます。
私も竹田さんがその話をしていたの覚えてますし、本とかでも度々そのくだりは出てくる印象があります。
本来の日本人は、悪口も全て明るく言うのが普通。その上で互いの意見を摺り合わせて良い物にしていくのが普通だと思います。
私は虎ノ門ニュースを見ていると、あるべき日本人のコミュニケーションが見えてくるのもあって、いろんな意味で安堵感を得ます。
そして、日本人としてあるべき形が自分の中に育成されてくると、ピシャッと言うべきことは言うタイミングと内容が分かるようになってきて、そこに何か恐怖や躊躇いはなくなるものだなと思うようになりました。
それではこれからも宜しくお願い致します。