私は、豊田市というトヨタ自動車のお膝元の地域に生まれました。その始祖は豊田佐吉であり、豊田喜一郎さんです。
もしもトヨタ自動車が宗教であれば、教祖は豊田佐吉であり、豊田喜一郎さんということになるでしょう。そして宗教という概念で考えれば、教祖以上の発明をしてはいけないということになるでしょう。
しかしながら、産業というのは発展こそが喜びですから、行動は真逆となります。私たちの地域は、豊田喜一郎さんの発明をとっくに超えた先の中に生きてます。
こういう環境で育ったせいか、発明した人、気がついた人、悟りを開いた人の上を行く事がおかしいなんていう発想の方が、おかしいんじゃないかと思えてしかたないのです。
仏陀が生きた2500年前と今なんてどえらい違いがあるのに、精神世界だけはそれを飛び越えられないのはあまりに不思議です。
そもそも私たちは、ピタゴラスの定理とか、万有引力の法則 とか、先人が一生かけて分かったことの恩恵で生きてるだけでなく、ピタゴラスやニュートンが見つけた法則なんて小中時代に学校で教えてもらって、その先の勉強をさせてもらえています。
こういう事と同じじゃいけないのかなと……初めて向き合った時に思ってしまったんです。
しかも仏陀の情報は2500年前だから確実に今時じゃないし、だからこそバージョンアップする必要性があるのに、そこだけ2500年前にするのも時代錯誤過ぎておかしいと思うんです。
昨日の記事で少しイスラムの事を書きましたが
イスラム教徒の人たちが経済発展できない理由もここにあると思います。
イスラムの教えの中には、資本主義社会の理論などどこにもないから、経済というものがどうしても分からなくなってしまうんじゃないかなと思ってます。
先に歩んだ人の教えの中に学ぶべきことは沢山あるけれども、その枠組みの中にいるだけでは、社会発展は臨めません。先に歩んだ人のが正しく偉いということになれば、そもそも世の中の発展などないのですから。
そういった意味で先に道を歩んだ人も、これから歩む人も本来対等であるべきです。
先に道を歩んでくれた人に敬意と感謝を持ち合せつつも、対等であるべきだし、対等でなければ発展などつくれないと思ってます。
多くの宗教が発展的思想を失い、閉鎖的になってしまうのは、教祖と自分の関係が対等ではないからでしょう。そして、対等ではないからこそ、従属が生まれ、考えることを放棄していくのでしょう。
そして現代社会では、宗教という枠組みではなく組織のあらゆる場所で従属の意識が蔓延しているから、発展的な事が生まれにくくなっているんじゃないかなと私は思ってます。
まずはこの感覚を持ち合せることが従うだけの人生を回避する手段になるんじゃないかなと、私は思ってます☆
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すごーく腑に落ちました。開眼?というと大げさですし語彙力がなくてこのスッキリした感情を文章で表せないのですが、いつも生きる為のヒントをたくさんいただいております。ありがとうございます。
こんにちは。
腑に落ちたとお聞きし、私も嬉しく思います。
どうぞこれからも宜しくお願い致します☆