※こちらは、以前私がアダルトチルドレン(現在の自分の生きづらさが親との関係に起因すると認めた人)の問題に向き合っていた時に書いた内容を掲出しています。できれば最初からお読み頂ければと思います。→0.はじめに
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アダルトチルドレンは国民病?!
第二章 過去と現代の狭間にあるもの
和の精神からなる循環型の○の世界と頂点を目指すためだけにあるピラミッド型の△の世界とでは、全く違う世界観を創り出すため、「お国のために」と同様に、身近に溢れる言葉一つとってもその言動や思いに含まれる社会背景は大きく異なっていきます。
そして、この異なる言葉の意味が曖昧模糊となっているため、私たち日本人は様々な箇所で混乱を大きくさせてしまっているように見受けられます。
たとえば、「自立」という言葉一つとっても、日本の和の世界観の「自立」と西洋のピラミッド型の世界観による「自立」では、全く違う意味になっていきます。
自立には大きく二つの意味があって、① 他への従属から離れて独り立ちすること。他からの支配や助力を受けずに、存在すること。と②支えるものがなく、そのものだけで立っていること。(デジタル大辞泉より)があります。
戦後社会における「自立」の意味は西洋の考え方と同質になってきているため、個人で一通りの生活ができるようになっているか、また金銭的に自活できるか否かが「自立」としての大きな分岐点になっているように思われます。ですから、きちんと就職し、お金を稼ぎ、一人暮らしをするなり、家族を持つなりして「個」としての基盤が保たれる状態にあるか否かが「自立」の意味の中心となりますから、辞書の言葉では①に即した意味が「自立」と捉えられています。またこの側面で「自立」を語るということは、物質的側面の量に応じて「自立」を判断していると言えるとも思います。
一方で、和(輪)の世界観の中における「自立」は、少し意味が違ってきます。古来より続く日本の循環の概念においては、君主を含めて誰しもが「集団の一部」として、また「自然の一部」としての役割が付帯されていました。ですから、「個」としての「自立」ではなく、集団の中で自分の役目を発揮できる状態を確立していくことが「自立」であると言えると思います。
また、集団としての利を得るために、役目を全うするために、最も不必要となる感情は「私」を重んじる感情です。そのためこの世界観で必要とされるのは「滅私」です。ただし、「私」の感情を滅ぼしてなお、自分というものは存在するわけで、その状態でも凜としていられる状態が「自立」であると言えます。辞書の言葉では②に即した意味がこの「自立」の意味に近いでしょう。またこの側面で「自立」を語るということは、精神的側面の凜々しさをもって「自立」を判断しているとも言えると思います。
また、「滅私」を重んじた生活に慣れていくと、自らの生活に対する執着は否が応でも減っていきます。身分不相応な持ち物などへの興味は特段に失いやすく、最低限の持ち物で生活することを好むようになっていきます。また、一人暮らしをしているのか、家族と同居しているのかは「自立」を判断するポイントではないという感覚も強くなっていきます。
このように、西洋主観による「自立」と日本社会が育んできた「自立」は大きく違っています。
昨今の日本では、「精神的な自立ができない大人が増えた」という言葉もよく聞かれます。またアダルトチルドレンという言葉をこのような意味合い(精神的に子供のままの大人)で捉え違いする方も多いです。多くの人がアダルトチルドレンを言葉の第一印象で捉え違いしてしまうということは、やはり精神的に未熟のままの大人が存在している認識があってこそのことだと思います。
どうしてこのような現象が起きてしまうかと言えば、それは社会が物質側面のみで「自立」を判断する傾向が強いため、誰しもが物質面をまず満たそうと行動してしまうからでしょう。そして、権威や権力そして社会的地位を獲得できることが、一つのゴールであり、そこには精神的基盤がどうであるべきかという問いかけがないからと言えるでしょう。
戦後の日本社会で人間性に疑念を持つ人が重要なポストに就いているケースは珍しくないこととなってしまいましたが、それも西洋の価値観と日本の価値観が相反する部分にありながらも、その相反する部分が具体的にどこか分からないまま前進してしまったがゆえの産物でしょう。
また、現代人は「社会に出たら一人前」という意識が強く、学生や家庭に重きを置いて生活する人などは、「一人前ではない」という意識も強くなっています。そのため、社会と家庭が公私の分岐点となっている様子を感じますが、この括り分けも物質的側面に因る部分が大きいため、如何なものかと考えています。
社会と家庭は分断されて成立しているものではなく、地続きなものです。そして、そのどちらも日本という国家の中に存在しているのに、様々なことを分けて考えることが当り前になってしまった社会は、国家という枠組みも別物として捉えがちだと思います。しかし、これは間違いです。
国と社会、家族(親)という概念は、いまでも天皇陛下の東日本大震災のねぎらいのお言葉から繋がりのある一つであることがわかります。
「これからも皆が相携え、いたわり合って、この不幸な時期を乗り越えることを衷心より願っています」
このお言葉からも、国家・国民・家族は、苦労のある時ほど一つになっているということが読み取れます。
また「国家」という言葉からも、日本は一つの家族であり、家庭であり、その上でそれぞれの役目があるというだけのことを昔の人は理解していたと思わされますが、西洋的価値観の側面だけで物事を見るようになってしまった現代人は、この感覚が分からなくなってしまっています。
だからこそ、歴史に誤解が生まれたり、祖先たちが残してくれた言葉を活かした生き方ができなくなっており、全体としての混乱が鎮まらない事態が続いています。
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ゆりさんいつもお世話になっております。
やっとアダチル本の記事を読み終えました。
何というか、無料で提供していただきまして本当に良かったのかしら?と言うくらい濃い内容で…本当に感謝いたします。
私はこの記事に一番感銘を受けたのでこちらにコメント致します。
自立、と語るとどうして一部の方々が過敏に反応するのかと言う疑問がこちらでとけました。ありがとうございます。
そうかあ、集団の為に、未来のために、と考える事が出来るのならば自立していて当然であると私は考えていたのですが、なぜか矛盾している方がいる…どうしてかしら?と思っていましたが、
そもそも自立の捉え方が違えば当然解釈も違ってくるのね、と思いました。
自立がマイナスの意味での自己犠牲を伴うと考える方がいる背景はここかあ、と。
目から鱗がポロポロ溢れる思いです。
私がちまちま読み進めているうちにヒロシさんにゆりさんがハマっていて、それも面白かったです。垢BANする前の信者様がヒロシさんの生活圏に知らず知らず侵入しているのでは?という動画が非常に印象に残っています。彼はそんなリスクを承知で、界隈の闇をエンタメに昇華しているので、面白いなと思っています。
ゆりさんとヒロシさんの益々のご活躍を楽しみにしていますw
ありがとうございます。
そして、全部読んでくださりありがとうございました。
実はこの項目必要なのかどうなのか、要らないんじゃないかなって思う気持ちもすごくあって、消そうかどうか迷っていた項目だったんです。
だから、ここにコメントしてもらえたことがすごく嬉しいです。
ありがとうございます。
幸福の科学は気になっていたものの実態が良く分からな過ぎて、しかも近寄りたくなくて、分からなかったことが急に分かりだし、実は今日も情報収集を一日してました(^^;)
飽きるまでどうも続けちゃう性分のようで、飽きたら他のことします。
それではこれからも宜しくお願い致します。