昨日本題に入らず終わってしまった記事の続きです。
いだてんの視聴率が悪くて、早々に「打ちきりか?」なんてことを囁かれておりますが、視聴率がついてこない理由は、私にでもなんとなく分かります。
いわゆる大河の王道を全然やってないドラマだからだろうなぁと思います。
大河は歴史に名を残す人物の生涯を描くことがコンセプトのドラマですが、大河と言えば「時代劇」というイメージが強く、近現代を描くというイメージがそもそもありません。
1963年から始まり、今年で58作目となりますが、明治から昭和の近現代を描いたドラマは僅か4作品です。
そのうちの3つは1984年~1986年の3年間に集中していることから、NHK的に何かしらの方針転換があったのではないのかなと推察されますが……、その後はまた明治維新までの時代劇に戻ったということは、視聴者が大河に求めていることはやはり「時代劇」ということなのかなぁと思います。
そのため、時代劇でない時点で、「大河に求めているものとは違う」と思う視聴者はそれ相応の一定数いて不思議ではないと思います。
さらに、今回の大河の主人公は、無名の人。となれば、さらに興味を失ってしまう人も多いだろうなぁと思います。
その上、クドカン世代ではなくさらに時代劇を求めている方において、明治と昭和が同時並行で話が進んでいく枠組みは難解に映って当然だろうなぁと思います。
いわゆるクドカンファンはこれでこそ楽しいと思うでしょうが、うちの親見ていても、どうやら話についていけていない様子を多々感じます。
これはぶっちゃけ「あまちゃん」の時にも感じてました。
あまちゃんも、現代と80年代が平行して話が進んでいきます。今生きている人の半分くらいは、どっちもの時代を知っているので「分かる~」という面白さがあったはずなのですが、それでも親は「テンポが早すぎる」と言ってました。
普段のクドカンのテンポを知ってたら、随分のんびりとしたテンポで朝ドラも大河も描いていると思うのですが、知らなければやっぱり早いし、別の時代が平行して話が続いていくことが分かりづらいという人もいて当然で、それが視聴率の低下に繋がってるのだろうなぁとは思います。ただ、そっちに合わせたら合わせたらで、クドカンの持ち味のない脚本になってしまって面白くなくなるだろうなぁと思います。
しかも、クドカン世代の多くは小中学生の子供を持つファミリー層だと思うので、オンタイムで見てるのはきっと「世界の果てまでイッテQ」だろうなぁと思ってます。
「世界の果てまでイッテQ」と視聴層がモロかぶりしちゃっているのも、低迷の要因の一つだろうなぁと思います。
まぁ、そんなこんなでなかなか世間が認める視聴率にはならない可能性が高いですが、明治からの近現代について勉強し直している私にとっては、学ぶべきことが沢山ちらばっていて感動以上の勉強の時間になっています。
戦後教育が積み重ねる学習によって、私たちは戦前と戦後で歴史に大きな変化があったように思い込まされているように感じています。
確かに、敗戦によって日本社会は大きく変化しましたが、その前段階にあったものは明治の開国です。
ここから日本社会は空気に支配されていく時代を体感していくことになったよなと私は思ってます。
それから、現代において大きな問題の一つである「アダルトチルドレンの増殖」の契機となったのは明治から始まった教育と東京一極集中にあったと思っています。
当時の時代のことを思えば、富国強兵をスローガンにする教育も、東京一極集中も致し方ないことだとは思うのですが、
だからと言って、これから続く未来も同じ枠組みである必要性はどこにもないと思うし、
時代の変化によって変えていくべきもの、それから、当時の時代の政策を反省し見直すことはいつの時代も必要だと思うのですが、
戦後教育によって考えることを放棄させられている人が多い世の中で、この問題は盲点になってしまっている様子を感じています。
今回のドラマは、その盲点を突いてくれる描写や発想が多いなと思っているので、私にとってはドラマという名の勉強の時間にもなっています。
話がまたまた随分逸れましたが、ようやく本題です。
私がこの番組を観て思ったのは、「随分と非常識なことを堂々とやられているな」ということでした。
そのため、数字がついてくることは前段で申し上げた通り、難しい部分もそりゃあるだろうなと思います。
しかし、それでも今までのフォーマットに押し込まれることなく、新たなことに挑戦することは非常に大事な事で、これこそが「非常識」と呼ばれて相応しい状態だと思っています。
ただ、この「非常識さ」を、都合良く勘違いしている人も多いよなぁということです。
私がこのブログで伝えたいのはまさにここです。
「自分勝手」を「良い意味での非常識」だと勘違いしていることが、スピ系にはありがちです。
クドカンの「いだてん」は、確かに大河ドラマという枠組みの中では非常識な事が横行していますが、大河ドラマの大枠にあるものは実は守っているのですよね。
「あまちゃん」の時もそうです。大枠は守った上で、自分のやりたいことをやっていくのがクドカンワールド。
一方でスピ系とかに傾倒して「非常識さ」に恍惚していく人たちは、いわゆる社会の枠組みにあって然るべきルールも何もかもを逸脱していき、それこそが「新しい生き方」とか豪語しているから、気味が悪いのです。
たこわささんのこの記事が私のこの思いを代弁してくれてます↓
少し引用しますね
心屋さんの教えを実行して「自由になれました!」という人をよくお見かけしますが、不思議なことにご本人が言うほど自由で満たされているようには見えません。
主に金銭的な意味で。ぢんさんの言う通りに「やりたいことだけやって」たら、存在給が上がってお金が空気みたいに入ってくるはずなのに、おかしいな?
ブログには書かないですが、本人達も心の中でそう思っているんじゃないでしょうか。私はサッカーはあまり詳しくないのでおぼろげな知識で書きますが、サッカーは手でボール持っちゃダメですよね。
触っていいのはキーパーだけ、それがルール。一人の選手が「ルールに縛られるのはイヤだ! 俺は自分のやりたいようにするんだ!」と言ってボールを抱えて走り出したら、たぶん笛が鳴って審判がやってきます。
試合が中断されて、観客席からはヤジが飛んだり、他の選手はちょっと嫌な顔したり、審判は注意するでしょうが、それは別に嫉妬しているわけでもお父さんやお母さんを投影しているわけでもないですね。ただ「皆でルールに同意してサッカーを楽しんでるんだから、それを邪魔するのはやめてね」と言ってるだけで。
でも聞かずにしつこくやってたら、たぶんレッドカードで退場になると思います(なりますよね?)
フィールドから出された選手は「俺はつまらないルールから抜け出した! 自由だ!」とグラウンドの端っこで誇らしげです。
心屋界隈の”自由になった人”というのは、どうもこんな感じじゃないかなという気がします。
まあもちろん、どんなプレイをしようが本人の”自由”です。
でも結局、観客が注目して追いかけるのは、フィールドの中でルールを守りながら活躍している選手たちなんですよね。手を使わない以外にも、きっと色々な細かいルールがあると思います。そういうルールを当たり前のこととして守りながら、その不自由さの中でカッコいいプレイを決めてみせる。
観客からの注目や応援を受けるのはそういう選手たちであって、グラウンドの外でなんか叫んでるレッドカードさんではないよなぁと。
周りから注目も応援もされない人には、お金も入って来ないだろうということは簡単に想像できます。お金もいろんな形のサポートも、好かれる人、応援される人に集まるんですものね。
自分のために自由になるのは勝手ですが、その自由によって、社会に当り前にある秩序を乱されては困ります。
秩序という最低限のルールを守りながら、その上で自分らしさを発揮する。それが良い意味での非常識であり、新たな風とも呼ばれるものだと思います。
その違いや区別がつかない人が増えている世の中は、悲しいとやらなんとやら。
戦後教育がどのように自分の中に張り付いているのか、気がつく人が増えていけば現状の変化が見られると思うので、
まぁ私は私でコツコツ頑張ろうと思います。
それではまた!
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スピ系の勘違い自由人は
既成概念とルールやマナーの違いを、混同してしまって
全く持って理解していないように思います。
ルールやマナーは、本来であれば
他人同士お互いが気持ち良く過ごすためのもので
そこにはリスペクトも含まれているはず。
例えば武道、茶道、花道、神道、
日本には「道」というものがあり
どれも礼節(マナー、作法)には厳しいものがあります。
本来であれば、いきなり湯を注いでお茶すれば良いし
顔を合わせた瞬間から闘いを始めれば良いものを
礼に始まり礼に終わるという事が
当たり前のように、なされています。
それは、相手に対して敬意を払うとういう現れから来てるのではないかと思います。
神社での参拝のお作法も
神様が「こうしなさい」と言ったわけでもなく
あくまで神様をリスペクトするという
人間側で考えられたものだと思いますし。
根源に尊敬、畏敬の念があるかどうかで
大きな違いが出て来るのだと思います。
自分の場合、レリゴーブスで
「ウケる〜(≧∇≦)」とか言ってる
非常識人ではありますがwww
私もレリゴーブスに笑う非常識人ではありますがwwwwww
笑う理由は、仰る通りの礼の持ち合せ無さだと思います。
自分の気持ちに従って、約束を守らないこともOKとか、どこの輩が抜かしとるんじゃ!というだけです。
一度自分が口にした約束は守って当然なのに、それすらできない人たちが、「そうした方が夢が叶うよ~」とか馬鹿じゃないのか?って思います。
道を大切にしていきたいですね。
こんばんは。
偽スピの海を漂いながらも違和感を抱いていた昨年の1月、たこわささんのブログに辿り着き、そこからこちらのブログにも辿り着いたことを思い出しました。ゆりさんが偽スピ著書の分析で怒涛のブログ更新をしておられた頃です。更新される記事を追いかけるように読んで読んで・・・今に至ります。
ゆりさんのブログ読者となって1年以上経ちましたが、最初の頃は「何の話をしてるんだ??」と思っていたこともだんだんわかるようになりました。もちろん今でもわからないことは多々ありますが、ゆりさんの投げかけに対し、自分なりに考えたりするようになりました。
今回、久しぶりにたこわささんの文章を目にしましたが、今読んでもこのサッカーの例えはわかりやすいですね。彼女が投じた一石は本当に大きな波紋となって多くの人を脱スピに導いてくれたものと思います。
もう一年もお読み続けてくださってるんですね。
ありがとうございます。
みみんさんが仰る通り、「この子は一体何に怒っているだ?」的な感じで、話していることが伝わらず誤解を招く結果になっていたことも当時は沢山あったなぁと思うのですが、みみんさんを始めとして読み続けてくれている方の理解が深まることによって、随分誤解はほどけてきて、そして言わんとする部分が伝わりやすくなったと思っています。
たこわささんの記事は今読み返しても、色あせしない本質が書かれているよなぁといつも思います。
たこわささんの告白の余波は大きいですよね。
それではこれからも宜しくお願い致します。
おはようございます。
レス違いのコメントで済みません。
どうも最近の教祖または仙人は、活動休止を宣言しながら休止期限ぎりぎりでその発言を撤回する様子が多いです。
仙台の仙人も同様でした。
その様子はまるで閉店セール(店内改装)を店頭に示している紳士服量販店に見えます。
ブログとメルマガは配信しないとのことですが、活動は継続する。
厳密に言いますと、メルマガは自らのセミナー告知と宣伝に使用するだけで、教えは活動参加者への専用アドレスから配信とのこと。
休止撤回の言い訳は、
>ではなぜ4月からの企画を開催することにしたのかというと、
>1つの理由は「次元を高め合っていくコミュニティ(場)を作るため」です。
>もう1つの理由は、私自身がアウトプットの場を作るため、です。
仙人とは一人孤高に自らを律し、自らの考えを深めながら生きていく人物と思っていました。
なぜか、人と交わる場を作りたい、自分の話を聞いて欲しいという理由で活動休止を撤回しています。
その点で考えますと、心屋は活動休止を宣言せず「手を返し品を変え」信者サービスをしていますね。
ダブルスタンダードもこの業界では「常識」ですが、世間的には「非常識」ではないかと感じています。
自ら音声で、「数千人の相談に乗ってきたし、数万通のメールに目を通した」と言うだけあって、
常識の幅が人よりも広いと思いました。
まぁ、ゆりさんへの攻撃(口撃)も彼の中では「常識」だったのでしょう。
ブログ汚しをお許し下さい。
おはようございます。
ここのコメント欄で仙人様のコソコソ活動が話題になったせいなのかどうなのかは知りませんが、ブログも無くなっていることに最近気がつきました。
どんどんクローズドにしていくんですね。
クローズで囲い込まれた人の今後が気になるところですが……まぁ自業自得ですよね。
それではこれからも宜しく願い致します。