だから、言わんこっちゃない。
この間の記事でもご紹介したドラマ「不適切にもほどがある」。
絶好調にめちゃんこ面白いですね。
山城新伍に扮した秋山出てきたり
古田新太の若い時代を錦戸君が演じたり、
笑うしかないじゃんっていう最高のネタをブッコミ続けてきて、毎度もう終わっちゃうの?ってくらい時間が流れるのが早い(笑)
あっ、ちなみに若い頃の古田さんは、やや錦戸の香がするくらいのイケメンだったんですよ。
本人の若い写真みても、まさかここまで変化するのかと思っちゃいますけどね(笑)
まぁとにもかくにも、古田さんの若い頃を錦戸君にやらせて、さらに短い尺の中で錦戸君のセクシーギラギラを大放出させてましたからね。
すごいですよクドカンさん。
ドラマの面白いとこばっか語りたいのは山々なんですが、記事の本題。
このドラマでは、現代の窮屈な言論空間の現状についてあれやこれやと手を変え品を変え訴えていきます。
分かり易い分野としては、企業のコンプラ、それからジェンダーレス、さらに○○ハラスメントと言われる部分。さらには「登校拒否」改め「不登校」といった言葉の変化について。
簡略的に要点をまとめると
「寛容&多様性と訴える社会環境を整えるふりしながら、実情は不寛容&画一性を強いる社会の実態について」
あれやこれやと手を変え品を変え訴えてくるわけですが……
このドラマ観ながら毎度つい思っちゃうんですよね。
こういう社会つくった原動力の最大の要因って、メディアの論調よねって。
しかも、そのメディアの論調の根本にあるのはいつだって、政権潰しの政変狙い、利権獲得、活動家の圧力&協調など、目先の利益を狙うものばっかりで、これが起きたらどうなるのかという根本的なことはそもそも考えていない。
その上、そちらの論調に真っ向から反対するまともな意見を持ち合わせた人は、ことごとく社会的抹殺をしてきたのもやっぱり彼らであって、その結果彼ら自身が自縄自縛の状態に陥って、今悲鳴を上げてることをネタにドラマが作られているんだけどさ、
そこが見え隠れするたびに、イラっとするよね。
首謀者てめーらなのに、被害者面かよってね。
まぁ△の意識に囚われて生きてたら、そうなるのも必然っちゃー必然だけど、なんやねんって思うよね。
思っちゃうけど、そんなイライラふまえてクドカンの脚本はスカッとさせてくれます。
こういう環境の中で本質論で戦うクリエイターの実力に脱帽ですが……、そもそも論としてテレビのスタンスはやっぱおかしいと思っちゃうんですよね。
てなわけで愚痴で始まった月曜日ですが、今週も楽しくやっていきましょう♪
アマゾン部門別売上ランキングでTOP3に入りました♪
電子書籍版 地球はファンタジックに還ってる
紙書籍 地球はファンタジックに還ってる