少し前に、「バンジーすると危ないよ」というお話しを書きました。
これ↓
この記事を書いた後に思ったことがありまして、その事を今から書きますね。
「スピ系メソッドに沿ってバンジーしちゃう人たちというのは、主にネガティブリスクに対して無頓着だったり、あまりに考えていなさすぎるから、想像もしないほどの痛手を負う」ということを、あの記事で書きました。
でもね、最近思うんです。
無茶したバンジーは往々にして痛手を負うものだけれども、それが痛いと思える心があるうちはまだ正常じゃないかな?って。
少なくとも去年くらいから、スピ系業界はおもむろに斜陽産業になり始め、そのメソッドの矛盾点が次々と浮き彫りになりました。
あんなにイケイケドンドンだったスピ系教祖さまたちの日常にも陰りが見え始めてきました。
ある意味一流と言える程度に登り詰めた教祖さまたちは、相も変わらず布教活動に熱心ですが、あまりに矛盾した言動の多くは「お笑いネタ」の一つになってきています。
ただそれでも、不思議な事が一つあって、彼らはあまりに打たれ強いのか、あまりにポジティブなのか分からないけれども、現状の変化をあまり認識されていないように思うのです。
それでもついてきてくれる信者の方々がいるからゆえの強気なのかなとも思うのですが、最近私は、「心の次元が私たちとは違う場所にいるからなのかな?」と思うようになりました。
スピ系教祖さまたちって、目の前に起きた出来事を何でも「ポジティブに受け取ろう」とする行為ばかりを続けてきた結果、「ネガティブに感じて当り前の思いを欠落させてしまったのかな」と、最近思うことが増えています。
ネガティブな感情には、嫉妬、怒り、劣等感など様々なものがありますが、意識的に彼女たちが消している感情は「悲しいや寂しい」じゃないかなと感じています。
そして「悲しいや寂しい」という感情を意識的に消すと、とんでもなく気持ち悪い人になるのだなと日々感じるようにもなりました。
先日、マダムユキさんの記事で藤本さきこさん界隈の記事を読んだのですが……
↓これ
こんにちは。昨日Twitterで藤本さきこ認定講師である林じゅんさんという方の訃報に接しました。詳細はこちらから→藤本さきこ認定講師の林じゅんさんがお亡くなりになりましたご親族の方が更新された、林じゅんさんのブログはこちらからです→ご連絡「突然の死」だということ 子宮系女子たちの淋しさ : Flat 9 〜マダムユキの部屋 - Flat 9 〜マダムユキの部屋 |
この記事を読んで思いだしたのが、藤本さんが今年死産された事です。
死産というのは普通に悲しんで当然の事だと私は思うのですが、藤本さんはやたらと「死産をキラキラな出来事」としてブログ記事を書いておりまして……、なんというかもう…切ないというかなんというか……可哀想という言葉でしか表現できないほど、その無理したキラキラにしようとする行為がとてつもなく痛々しく感じてしまいました。
興味本位でその記事を検索したのを後悔してしまうほど……読んでいるだけで、申し訳無いほど気持ち悪くなってしまいました。
単純に「死産で幸せ」とか「普通の感覚ではあり得ないよな」としか思えなくて、でもそれが彼女たちが考える「幸せ」なようなのです。
だとしたら、彼女たちは「とてつもなく不幸な感覚で生きている」としか言いようがないようなと、私は思いました。
彼女たちが考える「幸せ」というのは、とにもかくにも「ポジティブなことしか起こらない」という設定の中にあるからこそ、どんなことであれ「幸せ~♪」でなければならないのでしょう。
そしてその「幸せ~♪」を追求していくと、「どんなことであれ幸せと思わなければならない拷問」の中に埋められるだけなんじゃないのかなと私は思います。
たとえば、北朝鮮のような生き地獄のような場所にいたとしても、彼女たちの発想であれば「これこそが極上の幸せ」ということになるだけのことなのではないのかな?と、私は思うようになりました。
悦を求め、悦を追求した挙げく、どんなことでも幸せに思えることは本人にとっては究極の幸せなのかもしれません。
しかしながら、それを客観的に見ている人においては、単なる気味悪さしか感じないものなのだなと、私は彼女たちの常軌を逸した感情表現を見てひしひしと感じます。
結局幸せしか起こらないと言い張る生き方というのは、どんな事でも「幸せである」と変換できる脳があるかないかのだけかの違いであり、客観的に見てそれが「幸せに感じるか」とは全く別次元のお話しであると言えるのではないのかなと思います。
そして、「悲しみや寂しい」の感性を失うことは、人としてそれこそ悲しいことなのではないのでしょうかと、彼女たちの日常を見ているとひしひしと思ってしまいます。
彼女たちは常に「幸せ~♪」という自分を演出していなければいけない自縛に囚われているようなので、「寂しいや悲しい」という感覚は、自覚ある範囲では欠落していくのだと思われます。
とはいえ、彼女たちの無自覚の範疇においては、その衝動は生まれてしまいます。
そのため、客観的に観察していれば彼女たちの中に寂しいや悲しいなどの感情が常に蠢いていることはよく分かりますが、それでも彼女たちの意識的な範疇においては、その感情は消されているように私は思います。
一方で、ネガティブな感情の嫉妬や怒りついては、特段問題視していないようだから不思議です。
消した方が良いのはどちらかと言えばこっちの感情なのに、そこは問題視していないからこそ、この部分については猛威をふるいます。
その理由は、自身の正義感ゆえの産物ではないかなと思います。
なぜなら、「自分のしていることが正しい」と強く思っている時ほど、正義感も強くなるからです。
そして、自分のしていることが正しいと思っているからこそ、自分の反対意見の人を制御したくなります。その時に感じる怒りは自身の正義感に連なるものなので、「正当性のある抗議なのだという思い」に変換されてしまいます。
だからこそ、怒りとは、彼女たちにとって全くネガティブなものではないのです。
彼女たちにとってネガティブとは、寂しいや悲しいなどの人から下に見られるような感情や環境なのだと思われます。
どうして、寂しいや悲しいだけは排除しようかとするのかと言えば、結局、上下関係の中に人生があるからなのでしょう。
だからこそ、いわゆるネガティブな感情をマイナスとして捉えすぎてしまうのでしょう。
この感覚こそが、人を不幸にするのではないのかなと、私は考えます。
ネガティブを毛嫌いするのは、+プラスと-マイナスにおいて、-マイナスの方が下だと言う思い込みがあってこそなのでしょう。
どちらの感情もあって人生を謳歌できるのに、一方の感情を下にみるからこそおかしなことになります。
どちらも揃って人間の人生で、そしてようやく人間らしい生き方ができるはずなのにね。
そして、どちらかに偏った感情だけを携えて生きるということは、不自由な人生を敢えて生きるこになるだけなのにね。
それが分からなくなってしまうのでしょう。
毎日悲観的に生きるのはそれはそれで偏り過ぎているからこそおかしなことですが、悲しむというのは、人として生まれてしまった以上切っても切れぬ感情であるはずです。
そして「私たちが人間らしく生きるためにどうにもこうにも必要な感情だよな」と、教祖さまの異次元な感情表現を目の当たりにして、私はひしひしと思うようになりました。
かれこれ30年ほど、あまりにポジティブな生き方だけを求めてきた日本人ですが、どちらの感情も必要なものとして受け止めれるようになった方が良いですよね。
どちらかを求めるのではなく、どちらも大事に扱って生きていきたいですね。
変化が大きい今の時代にオススメの一冊です☆
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最近流行(?)の並木良和氏も、ちょっと怖いなと思います。
彼いわく「殺された人は殺されたい経験をしたいから、殺される事が魂的には幸せなので、殺されてむしろおめでとうなんです」
だそうです。
(一字一句こうだったとは言いませんが、そんなニュアンスでした)
思想は自由なので、彼がその信念で生きて行くのは勝手にしてって感じですが
気持ち悪いのは、彼の信者や取り巻き。
「そうなんですねー」となんの思考も疑問もなく
鵜呑みにするようなやりとりに寒気がしました。
こんにちは。
そのご指摘なんか分かります。
なんでか不思議な事に、最初まともそうに見えたはずの人でも、有名になっていく過程でなぜか「おやおや?」という感じに皆さんなっていきますよね。
話題になると、魑魅魍魎の人たちが集るからなのでしょうか。
ある人から聞きましたが並木さんい集う方のほとんどはリピーターだそうです。
依存しちゃうんですかね。
それではこれからも宜しくお願い致します。