4-7.二元論と革命思想によって生まれる支配欲とコントロール

※こちらは、以前私がアダルトチルドレン(現在の自分の生きづらさが親との関係に起因すると認めた人)の問題に向き合っていた時に書いた内容を掲出しています。できれば最初からお読み頂ければと思います。→0.はじめに

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アダルトチルドレンは国民病?!

第四章 デュープスと二元論とアダルトチルドレン

 

4-7.二元論と革命思想によって生まれる支配欲とコントロール

現代においてアダチルが多く生まれている背景には、親たちからの支配や束縛に嫌気がさしてしまうような環境が確実にあったからだと思います。

その感情を二元論に沿った考え方で自分を被害者に仕立て、親を加害者にするのはさらなる問題を生み出す契機にしかならないのでそれは避けたいものの、このような感情が生まれてしまう背景を無かったことにすることはできません。

なぜ、多くの親が無自覚のうちに子供を支配し束縛してしまうのかといえば、親の世界観もさらには社会の価値観も二元論で作られているからです。そして、「なぜ(Why)」を考えるよりも「How to」が優先されていくからです。

そのため親の頭の中は、その子の本質と向き合う以上に「あーすれば、こうすれば」という思いが強くなったり、「○歳になったら、○歳になるまでに」という何かの基準によって現われた価値観に子供を合わせようという意識が強くなりがちです。

このような思いが強くなってくると、人はそこに向かうことが「最善」という感覚に囚われてしまうので、なんとかそこに向かおう向かわせようと必死になってしまいます。

その思いが自分以外の人に向かうと、それはコントロール(支配)として現われます。

子供が嫌がっていても、それをさせることが「最善」だと思っている親の思いが、子供をコントロールしていってしまうのです。親にとってそれは躾(しつけ)の一貫だと思っていることが多いと思いますが、躾とコントロールは全く別ものです。

躾は、漢字にも現われているとおり、「身を美しくするための術を身につけること」です。そのために、道理に沿った「やって良いこと」と「やってはいけないこと」を覚えていく過程なのですが、二元論の世界観の中に陥った親たちの躾はすこし意味が違ってきます。

二元論に縛られた親においての「やって良いこと」と「やってはいけないこと」は、親が求める「最善」に対して変化してしまいます。

たとえば、偏差値の高い学校に進学することが「最善」だと考えるママの場合は、何があっても勉強させることが第一となるでしょう。場合によっては、子供の友人関係はライバルではなく敵になってしまうことだってあります。

とすると、「友達と遊びたい」という子供の思いは、母親にとって悪となってしまい、その関係を断ち切って学習に専念することが善いことになってしまいます。

これでは、知らず知らずのうちに教育勅語に書かれていた「④友人は胸襟を開いて信じ合いましょう」を否定して、逆教育勅語さながらに「④友だちを信じて付き合ってはいけません」を植え付けてしまうだけなのですが、革命思想と二元論がしっかり入り込んだ人であればあるほど、自分が「正しい」と考えていることだけが正しくなるので、その矛盾に気がつけなくなります。

躾と呼ばれるものは、時代に応じても変わらない道理に沿って行われるべきもののはずですが、「上昇することが成功の証」と思い込んでしまう心情の中では、そこは見失われてしまいます。

そして、「上昇することが成功の証」と思い込んでいることこそが、その人のエゴ(自我)に付帯した思いに過ぎないのですが、現代人のほとんどはどこからがエゴで、どこからがエゴでないのかの線引きがはっきりしません。

エゴという感覚の境を分かり易く言うのであれば、利己的であるか利他的であるかという部分に線がひけるのであろうと思うのですが、親が子育てをしている時、その気持ちは圧倒的に利他(子供のため)という思いがひしめくため、自分にとって理想の子供を育てようとしている親の利己(親の満足)は全く見えなくなってしまいます。

だからこそ、親は自分の行動がエゴであるとなかなか気がつけません。親には全く悪気はなく、本人にとっては最上級の愛情表現だと思っている節が強いので、話し合った所で解決の糸口すら見当たらない事態を引き起こすことになります。

また、親にとって最善だと思っている目的地に辿り着かせることが親の役目だと思っているからこそ、気乗りしない子供をなんとかその気にさせるために「あなたのため」などの言葉を多用して、親の言うことを聞かせようと繰り返すことも常態化してしまっています。

そしてこの言葉の多用が、親の気がつかぬうちに、親をより支配的立ち位置として強化する環境を作り出していきます。

多くの子供たちは「あなたのために」と言われたら素直に聞き入れるしかありません。どんなに「違う」と思っていても、子供は親無しでは生きていけないという自分の未熟さと弱さと大人が思っている以上に理解しているので、「あなたのために」と言われたのなら、ふてくされた気持ちを抱えながらも親の言葉に従わなくてはなりません。

だからこそ、この言葉の多用が、親の支配が強固となっていく作用を持ち合わせていると言えますし、親は親で、子供を従わせることが自分の役目だと思い込み易くなっていきます。

またこの環境の蔓延は、親も子も外部環境を自分の努力でコントロールできるという錯覚を与えやすくなり、それがまた別の問題を生み出すきっかけになっているとも言えます。

先の項目で、現代人はポジティブだけを善いものとし、ネガティブを排除していくことに躍起になりすぎていることをお伝えしましたが、何を目的に私たちはポジティブシンキングを異様に推進しているのか考えたことはありますか?

私は、ポジティブシンキングをした方が良いという考え方の根っこにあるものは、「自分にとって望ましい生活環境を得るため」と考えている人がほとんどなのではないかと考えています。

つまり、「ポジティブでいよう」と考えるただそれだけのことであっても、外部環境を自分でコントロールできるという錯覚に私たちは知らず知らずのうちに陥っているからそう思ってしまうのだと思います。

「ポジティブにしていた方がいい」のかもしれませんが、だからと言って全てを思い通りにコントロールできるわけではありません。しかし、私たちは極力自分の意に沿う方向で何もかもコントロールしようと思ってしまうからこそ、「ポジティブにしていた方がいい」と思い込んでしまう事実があることはきちんと気がついた方が良いと思います。

なぜなら、よくよく自分の生活を見回してみると、人間がコントロールできることなどほとんどないからです。

季節も年月も天気も天災が起きる時と場所も、人間がコントロールできるわけではありません。私たちは、常に与えられた環境に自分が合わせていく必要性が求められています。そして、環境や状況に合わせて最良の判断をしていくために、自分の内面を変えて、環境に合わせていく必要があります。

しかし、戦後社会によって私たちが大いに育んでしまったのはその逆です。努力によって自分の世界(外部環境)を変えられるという価値観が強くなってしまいました。

この意識が強くなればなるほど、自分が合わせるのではなく、相手が自分に合わせる環境を作ることを考えるようになってしまいます。

それが家庭内で頻繁に起きているからこそ、子供たちはこぞってアダチルになってしまっているのです。

知らず知らずのうちに、また悪気なく人をコントロールしようという意識が強くなってしまう果てにアダチルが生まれてしまっているのです。

ただ残念なことに、自らがアダチルだと自覚している人の多くも、自分が入り込んでしまった二元論の世界観の中で、今度は親を従わせようとしている傾向が強く、一方で自分の子供に対しては、親から学んだことをそのまま模倣してしまうことが起きています。

これでは解決しようがありませんが、この世界観に縛られている人がほとんどです。第三章の冒頭で私が「現代人のほとんどはデュープスだ」と言い切ったのは、この世界観の枠組みの中で誰もが解決を試みようとしているからです。

これでは問題は絶対に解決しません。

だからこそ、なんとかしてみんなでこの二元論が中心となった革命思想の世界観から抜け出していく必要があるのです。