4-1.二元論が無ければアダチルは生まれなかった?

※こちらは、以前私がアダルトチルドレン(現在の自分の生きづらさが親との関係に起因すると認めた人)の問題に向き合っていた時に書いた内容を掲出しています。できれば最初からお読み頂ければと思います。→0.はじめに

目次はこちらから→目次

アダルトチルドレンは国民病?!

第四章 デュープスと二元論とアダルトチルドレン

 

4-1.二元論が無ければアダチルは生まれなかった?

アダチルという概念は親子関係における加害と被害の関係をはっきり現わすものであり、そこに必要なのは二元論的な概念の定着が必要だと第一章から繰り返し伝えさせて頂いておりますが、改めてここで二元論とアダチルの関係性について説明し直したいと思います。

建設的な論議の手始めとして必要なことは、主張する人の背景にあることやものを考えた上で、共感できる部分と共感できない部分をまずは判断していくことだと思います。

その上で自分の意見なり考えを述べるのが望ましいことだと思うのですが、常に正しいか正しくないかの二元論的判断で生きることを余儀なくされた私たちは、このような細かいことは端折って、自分の意見に近い人の答えが全て正しいという考えに収まりがちです。

しかも二元論で考える癖の強い人ほど、常識的だと思われる内容や今の自分の感情に合う内容に飛びつきやすくなるので、情報を提供した人の意図を考えることなく情報を鵜呑みにしてしまいやすく、人々の感情を利用して扇動をしていこうとする人の言葉に踊らされやすくなります。

つまり、二元論の思考に慣れると、正解か不正解かを探すことに意識がむくため、自分で考えることを気が付かぬうちに放棄してしまいやすくなり、扇動されやすくなります

相手の持ち場立場や役割、そして思考性の元にある背景を理解した上で付き合えばこのような事にはならないのに、〇✕よろしくな感じで、全てを端的に判断する癖がついているからこそ、極端な思考性と判断の連続が生まれやすくなっていると言えます。

さらに二元論的な考えの上で「正しい」と思う気持ちが増していくと、どちらかの選択にしか、幸福を見いだせないことも増えていきます。そして、片方の選択肢にしか幸福を見いだせないからこそ、幸せの範囲は狭まれることになっています。

たとえば十代の頃は、デートの食事先がファミレスでも充分満足して楽しめたはずなのに、大人になってからのデートでファミレスを指定されたら、自分が馬鹿にされているのはないかという怒りすら沸いてきてしまう人だっているでしょう。別に本当は場所なんてどうでも良いことなのですが、店の格や食事の値段などのあれやこれやの基準で自分の価値を計ろうとしてしまう悪い癖が怒りを作りだしてしまいます。

このような思考性も二元論によって起きていることです。

高級なレストランでもファミレスでも、どちらも楽しめる人の方が幸せの幅は広いのですが、金額の高低などで自分の価値が計られると錯覚する思いが強くなればなるほど、行動範囲は限定され、幸せだと思えるシュチュエーションは減っていくのです。

二元論はこのようにどちらかの選択に「正」を見出す思考性を作り出す力があります

そして、自分の正しいと選択したもの以外は「不正」となってしまうからこそ、歩み寄りという動作や相手を理解しようという気持ちは欠落していきます。

子供には子供の言い分があると同様に、親には親の言い分があります。しかし、二元論の世界観は、一方的な自分の主張を相手に飲み込ませることに執着させていく側面があります。

本質的な議論に必要なのは、全く違うように見える意見をすり合わせて立体化していくことです。

だからこそ、二元論の思考性に慣れれば慣れるほど、問題は解決しにくくなり、対立を呼び起こすだけになっていくのです

また、二元論の思考性の積み重ねは、自分は正しく相手は間違っているという思いの強化に繋がっていくため、自分の考えが正しいと思う気持ちが高まれば高まる程、自身が気が付かないうちに排他主義を形成していく側面があります。二元論の思考性は、自分の意見と違う相手の根本的理由を推察する間もなく、ただ単純に否定されたという思いだけが醸成されやすいのです。そして二元論に慣れれば慣れるほど、意見が違う相手に怒りを生じやすくもなります

「なぜ?」を冷静に考えれば、それは視点の違いから生まれるものであることが容易に理解できるのに、二元論に慣れてくると、それができなくなります。

アダルトチルドレンの問題が解決しにくいのも、二元論の考えが浸透していることと親子という深い因縁がある関係値から、取り返しのつかない対立に繋がりやすくなっているのだろうと思います。

また第一章で、過去の日本を眺める時には現代人の思考を取り外して眺める必要があるといったのはこのためです。なぜなら二元論が深く埋め込まれたのは、戦後教育によってなのですから。「Yes or NO」の短絡的な二元論の解釈が常態化してしまっている現代の考え方を軸に見ていくからこそ、「戦争は悪いもの」、「権力は悪いもの」、「民主主義は良いもの」と決まりきった側面の視点からでしか、物事が見れなくなっているのです。

だからこそ、私たちは根本的な問題の本質に辿り着けなくなっています。自身のアダチル問題を解決していくためには、何よりもこの思考性から脱出する必要があるのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください