【悟りと宗教】その声の主はDNAか大脳か

最近の世の中はあらゆる事がごっちゃになっているから、混乱が増しているように思います。

だから、整理してみましょう。

 

最近武田邦彦先生のyoutubeブログをいつも聞いています。

私はブログというと、文字で書く日記や自分の意見の表明というイメージを持ち合わせていたのですが、実はブログという言葉はもう少し多岐に渡ります。

最近、アメブロでも「こえのブログ」というのを始められた通り、音声で伝えることもブログというものの一つです。

そもそもブログというのは

個人運営で日々更新される日記的な Webサイトの総称。

一般的には、単なる日記サイト(著者の行動記録)ではなく、ネットで見つけた面白いニュース記事や Webサイトへのリンクを張り、そこに自分の評論を書き加えた記事が時系列に配置されているWebサイトのこととされているが、厳密な定義はない。
(IT用語辞典 e-Words)

とのことで、厳密な定義はないのです。

武田邦彦先生はyoutubeで毎日公開している自己音声のことをいつも「ブログ」と読んでおり、私は最初は「その定義は間違っていないだろうか?」と思っていたのですが、あまりに気になって調べてみると、定義を限定的に使っていたのが私の方で、武田先生の方が正しかったということに気がつきました。

ということで、今日も前置きが長くなってしまいましたが、今日は武田邦彦先生のブログを通しながら共感したことについて書きます。

 

宗教と科学は合い寄れない物?そんなことないです。

最近の社会は何かにつけて分断することに躍起になっています。

そして融合べきするはずのことも融合できなくなり、あらゆる場所に対立が生まれそれが激化しています。

私たちがこのような風潮に巻き込まれる最たる理由は、二元論で考える思考癖によるもので、また識者たちが自分の考えが二元論に陥っているという事に気がつかないまま「それが正しい」という思い込みの積み重ねによって、さらにこの考えが強化されています。

本来であればはどんな考え方でも融合し歩み寄り、そして互いを補い合うことができます。(ただし、韓国のような嘘つきサイコパスとはそれをしてはいけません)

武田先生は科学者であり、学者ですが、哲学や宗教のお話をよくされます。それを科学的な見地に基づいてどう捉えるべきかを教えてくれるのですが、これがとっても勉強になる話ばかりで、「悟る」感覚を与えてくれます。

私がお気に入りの武田先生の哲学系宗教話を少し貼っておきますね。

この動画でお伝えされていることは9割型端折ってこの後話を進めていきますが、超超超ざっくり先生の仰っていたことを要約するとこんな感じかなと思います。

①お釈迦様やキリスト教が辿り着いた閃きや直感は、DNAに書かれたことを読んだと言える。

②その直感は科学を超える叡智に辿り着くことができる

③科学は、その直感で得た知識を理論的に実証することができる

④多くの人は、大脳だけで考えるから常識の判断基準に右往左往して、自分らしく生きられなくなる

⑤自分らしさに気がつくのも一つの悟りであり、悟りにはレベルがある。そしてお釈迦様やキリストなどが辿り着いた悟りは、DNAに書かれたことを読むという悟りであったであろう。

武田先生が仰る大脳とDNAの違いを読み解いていくと、現代社会で起きている大いなる混乱やスピリチュアルな話が単なる胡散臭い宗教化していっている理由も説明がつくよなと私は思っています。

 

悟るのか、それとも従うのか。

私の言葉で「悟る」を表現すると、それは「体感」とも言い表せれるなぁと思っています。

体感を用いている内容は、一言で説明がつくのですが、体感を用いていない人に説明を施そうとすれば、非常に言葉がただただ長くなり、そして結局何を伝えているのかが分からない事態に発展していきます。

こういう事態について、昔「走る」という動作を例題に説明したことがあるので、引用しますね。

第一章 ルールと現実を知ろう ~基礎知識よりも大事なこと~

ー前略ー

この要素を頭だけの理解で止めることなく、体で感じられるようにすることが何より大事です。

スピリチュアル関連の情報発信をなされている人は、数多くいます。
しかしながら、そういう方のほとんどは体感なしに、思考と理論で会話しているように私は感じます。

それはどういうことかと言いますと、例えば「走る」という行動を表現しようとした時に、「走る」以外の言葉でその状況を説明しようとする人はいるでしょうか?

「人間は二足歩行をするとき、左右の足で交互に地面を蹴ることで推進力を得るんだ。このとき、両足が同時に地面から離れる瞬間がある移動方法を『走る』、常にどちらかの足が地面についている移動方法を『歩く』って言うんだよ。だからね、必然的に、走っているときは両足が同時に地面につくことはないんだ。」

なんて、大層な説明をつけて「走る」を説明する人は面倒くさいですよね(笑)

どうして「走る」は「走る」だけで通用するかというと、みんな「走る」を体感しているからです。だから細かい説明を付け加えなくてもこの一言で状況をみんな想像することができる。

「悟り」というのは、この「走る」の例題で言えば、最初に「走るが分かった瞬間」だと思っています。

体感で理解できた時に、私たちは「悟る」という感覚を持ち合わせ易く、そしてその悟りはレベルが上がっていけばいくほど、DNAに書かれていく情報に到達していくなのだろうと思います。

だから、真理に到達した人は、結局みんな同じ事を言い出すのだろうと思います。DNAレベルで所持している情報はきっと違いがないのでしょうから。

しかしながら、大脳中心に生きている私たちというのは、体感を持ち合わせず大脳中心にその真理を解釈してしまうからややこしことが起こっているのだと思います。

実際に自分自身も体感してしまえば、さして難しい説明など必要もなく「分かる」ことなのに、体感を用いていないことで積み上げていく論評はどんどん難しくややこしくなり、さらには本質から外れていくことになっているのだろうと思います。

教義に従順に従わなくてはと思う心も、基本的には大脳が持ち合わせている価値観によって生まれ作られていき、そしてそれが常態化していき、いずれ宗教と呼ばれるものになっていくのでしょう。

まさに脳第一主義がなせる技。

↓関連記事↓

【私の宇宙観】脳みそ第一主義は、一神教の世界観ではなかろうか?

 

人は悟りを体感した時、その事をそしてその方法を誰かに教えてあげたくなるかもしれません。

同じように悟りたいと思った人は、その方法を真似してみるでしょう。同じようにその人たちも悟りを体感すれば、それはまた伝播していくわけですが、その情報は最初の悟った人が一次情報だとすれば、第二次、第三次と情報は本質から離れていくことに繋がり、第二次、第三次と情報が拡散していく間に、別の思惑の情報が積み重なっていく場合もあります。

そうしていくうちに、情報という物は「分かることより従うこと」に変化していくのかもしれないなぁと思っています。

なぜなら、悟った人たちやその傍にいる人たちよりも、そこから離れた人たちの方が、大脳の支配が強いことは容易に想像できるからです。

 

始まりは全て「悟り」から始まっているのに、いずれ多くの悟りが宗教化していってしまう理由は、「分かることより従うこと」に重きを置いてしまう気持ちがあるからなのだろうなと、私は思っています。

また、「分かることより従うこと」に重きを置いてしまうことこそが、悟りから宗教へと変化する過程であり、DNAから大脳へ情報が転化していくとも言えるなと思います。

 

だから、分かることだけをすること。

分からないことを知っているという状態に徹することは、やっぱり大事だよなぁと思います。

ここら辺のことは「生きやすさを手に入れるための 波動とエゴの法則を書いた本」でも説明させて頂いているので、気になる方はそちらを読んでみてくださいね♪

 

 

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10 件のコメント

    • へぇぇぇ面白そうな本!
      早速読んでみます。

      やっぱり哲学と科学は同化するべきですよね。
      別々だと思うからおかしなことが起きてますし、科学が発展してきたからこそ、ようやく融合できる時代にきたとも言えますね。

  • 昔、理系のお兄さんとお酒を飲みながら「全ての学問は哲学から始まった。全ての学問は神(つまり自然法則)や世界の起源を理解しようとする探究心から始まった。」という話をよくしていました。
    数学は神のなせる技だとか、神が創造した人間を理解するために医学が生まれたとか、そんな話でした。
    理系の学問も全て哲学から派生したものだと信じて生きてきたのですが、そういうことを書いてある本などが見つけられずごめんなさい^_^;
    なので、ソースは酔っ払いの会話ですが、私自身はしっくりくる考え方だなと思っています。哲学や宗教から科学を切り離してしまったから、カルト宗教や似非スピ界がおかしなことになっているのかもしれませんね。

    • こんにちは。
      理系のお兄さんの仰っている通りだと思います。
      たとえば、種が発芽して、そして芽になって、実をつける過程について、古の頃から人は土と水と太陽が必要であること、それから温度が大切であることは知っています。
      それを論理的に説明したり、また上手く実らないものがあった場合、どうしたら実るようになるのかと誰でも分かるようにしていくことが科学とか理系のお仕事なのかなと思います。
      今は科学で証明できないことは「否」のレッテルを貼られやすいですが、まず「言葉ありき」で世界が創られていくのですから、そこを否定しない世界観が必要ですよね。

      それではこれからも宜しくお願い致します。

  • ゆりさん、こんにちは!

    武田先生のお話は今の科学の常識と違った視点でみているので面白いですよね。
    先週の虎ノ門ニュースでも「実はいま北朝鮮は核を持ってないのでは」という説は武田先生ならではでしたね。

    科学と宗教が相寄れないというのは、キリスト教のイメージが強いです。
    地動説や進化論などキリスト教の神の概念と合わないものは排除しようとするし、
    アインシュタインや不確定性原理を作った人は、自分の科学的な主張は神を否定することになってしまうと、最後は精神を病んでしまったと聞いたことがあります。

    大脳化してしまった宗教は科学と相性が悪そうですが、小さい頃からそういった宗教が当たり前になっていると、その神の概念を乗り越えていくのが難しいのかな、と思いました。

    • まつりかさん!こんばんは!

      昔は「武田先生は過激なことを言っている!」みたいな風にしか思っていなかった私も随分成長しました。先生の考えているロジックの背景が分かれば分かる程「なるほど!」と思うことばかりになっています。先日の虎ノ門ニュースの北朝鮮の解説も同様に「なるほど!」と思わされました。
      私もその話を聞いてから、武田先生が解説してくれたように思うようになり、そう現実を見た方がかなり辻褄が合うなと思っています。

      科学と宗教が合い寄れないのは、キリスト教か……。これまた開眼です。言われて見ればそうかもしれません。
      以前ブログのどこかで紹介したことある、苫米地英人の「魔女の鉄槌」っていう本がありまして、これを読むと如何にキリスト教というものが支配のために色々なものを分断し、自己都合の元に進化してきた宗教なのかが分かります。
      そして、この宗教観だけに苛まれた人生となれば、宗教以外の別軸から真理に気がついた人は病むことになって当然だなと思いました。

      日本人は、他国の概念でも独自のものに変換できるほど融合が得意な民族です。
      その特異性を思い出し、その特異性で世界に再び貢献できる民になっていきたいですね。

      それではこれからも宜しくお願い致します。

  • 脳がない動物いるけど、腸などの消化器官を持たない
    動物はいないので
    「肚」で考えるというのは、理にかなっていると考えます。

    キツネと所で稲作に触れましたが、
    ヒトの遺伝子数が約2万4千ぐらいで
    稲の遺伝子数は3万2千ぐらいあるそうで
    個人的には稲の方が高等生命体のような気がします。
    一粒が百粒になるような脅威の生命体ですので、

    天照大神から授かったという神話にも頷けます。

    • おはようございます。
      かれこれ12年程前から、とかく「肚」の感触を頼りにするようになり、最近は常に「肚」が笑っている感覚を楽しめるようになりました。
      実践してみた結果、こっちの方がかなり理に適っていると思います。
      「肚」が笑っている状態こそがきっと人間にとって普通の状態なはずだと思ってます。

      稲の遺伝子すごいですね。ようやく最近は稲は大陸伝来ではないと知られるようになりましたが、そこから認識を変えなくてはですよね。天照大神が与えてくれた稲を大切にしていきたいですね。

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