先月安室ちゃんが引退した時に、浜崎さんとの違いが気になって記事を書きました。
【違いはどこに?】年を重ねて綺麗になっていく人、そうでない人
昔はどちらももちろん可愛くて、可愛さだけの点で言えば、あゆのが時流に乗っていたようにも感じていたけれど、年々浜崎さんの劣化具合がもうね……っていうのもあって、「違いはどこにあったのかなぁ」って、考える思いが止められずに記事を書きました。
その時、「今」に気持ちがあることができるのか否かっていうことが、輝きの違いとなっているということまでは分かったのだけれども、それでもまだまだ考え続けてたら、「今」に入れるのかどうかのポイントとしてもう一つ重大なことに気がつきました。
安室ちゃんが引退した直後、日テレ系で安室ちゃんのドキュメンタリー特別番組がありました。
夕食の時にちょっとずつ見てたので、今月頭くらいにようやくそのドキュメンタリーを見終わったのですが、結構驚いたのが、安室ちゃんは小学生の頃カラオケ大会で優勝した映像や下積み時代の映像がこれでもかって言うほど露出されていたことです。
確かに安室ちゃんは、昔から下積み時代のことを隠したことないし、そもそも少しずつ露出が増え、そして人気が高まっていった結果、カリスマになっていったって感じだったので隠しようがないというのもあると思うのですが、同時代突然カリスマとして現れたあゆのことを思い出すと対照的だなぁと思ったんです。
今の時代はWIKI先生などの情報が充実しているので、どんなに本人が情報を隠そうとしようとしても、全ての情報は表に出てしまいます。だから、あゆの下積み時代の情報も簡単に知ることができるけれど、デビューした当初は、今のようにネット環境が充実していた訳ではないので、下積み時代のことはしっかり隠されていたというか、触れてはいけない事項だったように思います。
だから、あゆのインタビュー記事とかで、デビュー前の話や下積みの話みたいなことは読んだ記憶がないです。あゆが全盛期の頃、ティーンズマーケティングの仕事の影響で、egg、popteen、Cawaii、JJ辺りは毎月しっかり読んでいたいけれど、今のセレブな暮らしぶりな話ばっかりで、過去の事には触れていた記憶がない。
だから、突如現れたカリスマセレブに世の中は興味津々で「どうやってデビューすることになったのか?」なんて言うことが巷のゴシップで語られたり、浜崎あゆみが「浜崎くるみ」という芸名で活動していたことやアーティストデビュー前には「未成年」というドラマの我門君の彼女役で女優をしていたことが友達の間ですごく話題になったりしてました。それもこれも、アーティスト浜崎あゆみは、過去の下積みと今を関連付けないブランディングをしていたからだと思います。
でも、結局この入り口があゆの苦しみの始まりなのかもなぁなんて、ここ一カ月浜崎さんの事を考えてたら思うようになってしまいました。
安室ちゃんの場合は、一生懸命やっているうちにカリスマと呼ばれるようになったけれど、
あゆの場合は入り口からカリスマ戦略がありました。
特にあゆがアーティストデビューした1999年は流行語に「カリスマ」が選ばれるなど、カリスマ旋風真っただ中だったため、非日常的な人物像に民が渇望を抱きやすい時代だったこともあると思います。
そして、あゆはカリスマ戦略の中心人物とも言えるような立ち位置での活動が余儀なくされていくものですから、自然体とは程遠いセレブなあゆという人物が等身大の自分であるという、錯覚の中に埋め込まれていってしまったのかなぁと思うのです。
セレブ設定としてのあゆという人物を地で生き抜くみたいなことが、色んな歪みを発生させておかしなことになってるのかなって思いました。
それはどこまでいっても作られた自分を演じているに過ぎないので、自然体の自分ではないのに、それを自然体の自分であると思い込もうとしていることが色々と無理を作ってるのかなぁなんて思います。
例えば普段の食生活の話一つとっても、安室ちゃんは、「肉」、「白飯」、「ガッツリ系」なんていう庶民的な言葉がキーワードとして挙げられますが、
あゆの場合は、「酵素玄米」、「青汁」など、なんかセレブモデルを彷彿とさせる「体に超気を遣ってます」系の言葉がキーワードとして挙げられます。
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結局、あゆの場合は、セレブアーティストとして「こうであるべき」「こうでなきゃ」的なイメージの中で生きているだけで、本来あるべき自然体とは程遠い生活を無理して頑張っているのかなって思うようになりました。
そして、過去の自分を封印させた上で始まった「カリスマ浜崎あゆみ」を一生懸命演じて生きているから、年々周囲が見ててしっくりこなくてすっきりしない感を与えるのかなと思うようになりました。
ということで……
過去の自分を隠して、新たな自分を生きたりするのって、色んな悪影響があるものだなと思いました。
また、過去の自分があってこその自分である生き方をしないと、自然体に生きるってそもそも難しいんだなぁって、思いました。
それから、ネットで知名度上げて商売しようと頑張っている人たちって、こういうタイプの人(過去の自分を隠したり、本当の自分を隠したり、本名を隠している人)って多いよなぁって、改めて思いました。
そういう人たちは演じる方法を教えるのは上手かもしれませんが、自然に生きることを教えることはきっと下手だろうと思います。
そして、演じることの歪みを付随させて生きていくことを自分にも相手にも強要させていくことになるので、どちらも苦しい生き方に近づくだけなんじゃないかなぁって思いました。
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なかなか難しいですねー。どちらが正しいとか正しくないとかの問題でもないし、時代の流れもありますよね。
自分のやってるコンサルなんかも、ある意味イメージが重要な部分もあって(笑)、暇そうで儲かっていなさそうなコンサルには何となく頼みたくないですよね(笑)。無理して儲かってますアピールもしないけど(笑)。
自分に近しい感じのインチキコンサルを見ると、ここに書いてあった記事とは逆に、「自分はこんなに酷い環境で、それにもめげず頑張って、メンターから学び、コンサルやってます」みたいなストーリーを語っている人もいます。それにやられちゃう人もいるようですが、自分からしたら逆に胡散臭いことこの上ない(笑)。
人のタイプと時代と立場によるでしょうが、下積み時代を語るにしろ、語らないにしろ、正直が良いですね。
自分は、いろいろ考えるのがめんどくさいので(笑)、淡々と目の前の仕事やってます。
(ありがたいことに、周りに恵まれて、今の状況になってます)
めっちゃ分かります。
特にここ「自分はこんなに酷い環境で、それにもめげず頑張って、メンターから学び、コンサルやってます」このパターンも多いですよね。
私は、こういうパターンの人ははなから信用しないことにしてます。
みんな辛いことはそれぞれあって、人が想像できないような辛い環境の最中に身を置かれることになる人もいるけれど、成功者と呼ばれる立ち位置になる人たちは、その環境を伝えることはあったにせよ、それを自分の売りにはしないものだと思うからです。
辛いことがあったから人の気持ちが分かるのは誰においても当然のことで、その環境に特異性を強く感じている人は、単にうぬぼれているだけだと思っています。
だからこそ、そこをキーワードに客寄せをする人たちは「シンデレラストーリープロモーション」をしているとしか私には見えないですね。
これからも宜しくお願いいたします☆
Incsticです。
別の記事からの流れでコメントをさせていただきます。
自分を演じる(プリテンドする)ことはとても悲しいことだと、自分の経験で理解をしています。
私事で申し訳ありませんが、10代の私は友人に嫌われたくない一心で「何でも賛成する人」をプリテンドしていました。
パフォームと言っても良いくらいの演じ方でした。
そこに自分の意見はありません。
あっても飲み込んでいました。
嫌われたくない、友人を失いたくないという気持ちだけが先行していました。
「どうしたらもっと話しかけてくれるだろう?」
「あのとき一瞬見せた嫌な顔がとても気になる」
などと、自分の生き方を友人に依存し、演じることで自分の世界を作っていました。
大人になってもその癖はなかなか治りませんでした。
自分に自信がないという簡素な言葉ではなく、自分を認めて欲しいという承認欲求が人一倍強いのだと、後になって気がつきました。
今はそう言うこともなく、自分の経験や意思を第一に考えて行動をしています。
「その方が良いよ」
などと家族も言ってくれているので、多分間違ってはいないのだと思います。
コメントありがとうございます。
10代は他人と自分の違いがどこにあるのか曖昧で、さらに学校教育の中で自分の意見を育む機会が少ないためみんな迷い子になりやすいと思います。
自分の意見が無い中で、人の意見に合わせることばかりしていると、結果軸が無くなるデラシネになってしまうため、一貫性のない人だという評価を得ることとなってしまいます。
自分の意見を持つということは、自分の人生に責任を持つということでもあると思います。最近は自分の意見だけを主張して、責任を取れない大人が増えていますが、そこはきちんと見極めて自分の発言に即した生き方を心がけていきたいですよね。
それではこれからも宜しくお願い致します。