一昨日、台風の中心地からかなり離れた場所に住んでいる私ですら、今回の台風はまるで石垣島にやってくる台風みたいだなと思っていました。
関西地域にもたらした爪痕は、想像を遥かに超える甚大なものでした。
そして、今朝北海道で大きな地震があったことを知りました。時間が経つにつれて、その災害がまたもや想像を遥かに超える甚大なものであることを知り、いたたまれない気持ちを抱えました。
このような時に、災害について言及するような事を言うのは如何なものなのだろうか、という思いは抱えています。
しかし、テレビで情報を入手していると、「なぜまだ気が付いてくれないのだろう」という思いが増えてしまいます。
だから、書きます。
私は、自分を「自然の一部に属する存在である」と確信し生きています。
ノイズの波動で生きている現代人がひしめき合う中で「自然の一部に属する存在である」と思うことは、笑われてしまうことだということも、もちろん自覚して生きています。
そんな私も、現代社会のノイズに埋もれ、同期し、この社会が全てだと思っている頃は、もちろん「自然の一部に属する存在である」ことは思えませんでした。
だから、多くの人が人間が自然の一部であるということに違和感を覚えることは否定しません。
しかし、ある日、ある事をきっかけに覚醒してしまった私は、見えない意識たちから頼まれた「自身の波動を高くする」というミッションを達成するためだけに生き直すようになった結果、どうにもこうにもこれが事実だとしか思えません。
【私の場合③】不思議な体験を何度も重ねた後に、ようやくガチでどうしようもないのが降りてくるwwww
なぜなら、現代社会が全てだと思っていた私も、ミッション過程で、自分という存在を勘違いし、虚像で作られた世の中を真実だと勘違いしていたことに気が付くようになってしまったのです。
そして、人と言うのは特別なものではなく、地球においては細胞レベルのミジンコみたいな存在であることに気が付くようになってしまったのです。
そして、人間は自然と別個に存在する稀有で特別な存在ではなく、単に自然の一部に属する存在であるという理解を深めていくようになってしまいました。
さらに、「自分」という言葉の意味は「自然の一分」であることを体現している言葉なのだと実感を帯びるようになりました。
そして、この解釈を元に「自信」を紐解けば、「自然の一分であることを信じる」ことに繋がり
「自由」というものは、「自然の一分である理由」ということに繋がっていくのだなと思うようになりました。
自分も自信も自由も、現代に馴染む考え方の上で言葉を発すれば発するほど、自己を窮屈に苦しめる言葉になっていくけれど、
自分とはそもそも「自然の一分」であることを前提にした上で、言葉の解釈を再考してみると、「自信」は安定を生み出し、「自由」は真の解放を与える魔法の言葉となるのだなと、実直に理解するようになっていきました。
災害にあわれた皆様には、心よりお見舞い申し上げます。
ここからお話する話は、メディアを主体とする世論の論調に異議申し立てるものであり、皆さんに対してそう思ってるのではないということを理解してお読み進めて頂ければと思います。
ここの所当たり前のように、毎日日本は災害です。
そうしてもたらされる災害は、この間起きたことよりも、どんどんひどくなっているように思います。
7月に起きた豪雨も大変痛ましいことでしたが、さらに一昨日の台風、今日の地震と、間髪置かずに起きる災害の規模はどんどん大きくなっています。
テレビはその度に、如何に災害が深刻なものだったのか、視聴率ありきの報道を繰り返します。自然災害が起きている理由は物理的事由によって起きているものとして話を進めていきます。
このような災害が起きた視点において、「人の心に理由にある」なんていう論調や視点は皆無です。
人が人を特別であると勘違いした代償によってこのような災害が起きているとは、もちろん伝えません。
伝えることは
「怖かった」こと
「不便」であること
など、
主に自然に対する不満です。
自分たちの思い通りに自然が動かなかったことへの不満です。
そして、自然によってもたらされた今後への不安です。
古に生きていた人であれば、このような災害が起こった際には、当たり前に自己の反省に繋がり、今までの生き方を反省することに繋がっていたことでしょう。
しかしながら、物理や化学が発達した昨今は、それとこれとは無縁な作用であると割り切り、自分たちの意識が引き起こしている自覚を不在化させていきます。
私たちは、どこまで行っても自然の一分です。
その自然の一分である私たちが、自然に不満を伝えたところで、物事は解決するはずもありません。
自分が自然の一分である自覚を持ち直し、自然の一分として生き直すということを誰しもが肝に銘じる必要があると、私は思います。
それを忘れてしまっているからこそ、人間と自然を別個に考えることが主流になっているからこそ、世の中はより不可解な方向に流されて、不安に怯える事態になっているように思います。
自然に対して不満を述べる前にするべきことは、誰もが反省をすることだろうと私は思います。
私たちの驕った考えが、今の状況を作り出してしまったのだと、私は思います。
そして、日本はいち早く、宇宙の波動に同期してしまったからこそ、どこよりも強く激しい宇宙真理の法則を受ける宿命にあると思います。
やはり、誰もが「自然の一分」である自覚に、立ち返るべき時なのだと思います。
しかし、エゴが心を支配していると、どうにもこうにもそれが難しく恐怖に身もだえます。
次の記事では、現実を直視できない人たちが、明後日の情報に転がされていく現況についてお伝えできればと思います。
どうか、人間を特別に思わないでください。
私たちは、単に自然の一分だけなのです。
人間だけの都合で地球をコントロールすることなど土台無理な話だったのです。
その事実に気が付き、この事実を、多くの人が腑に落とせますように。
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本の内容一部を公開してます。
本の紹介ページはこちら↓
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全く持ってその通りだと思います。
TVは見ないのですが、今日の読売新聞や北日本新聞の1面のコラムに、北海道地震について、非常に傲った、自己中心的な記事が書かれていて、がっくりきました。自分達が自然の中で生かされているという視点はなく、災害をもたらす自然は敵、といった自己中心的論調に終始したコラムで、これが新聞の一面に載せることかい、、、と呆れてしまいました。
事実を見て、今自分に出来ることを淡々と、そして日常を楽しむこと、ができるのはゆりこさんのブログや書籍の影響がとても大きいです。
いつも、ありがとうございます。
こちらこそ、いつもお読みくださりありがとうございます。
誰かのせいにするのが、マスコミの常套句なのが分かっていても、それを一方的に受け取らざるを得ない環境の中にある私たちは、本当にモヤモヤしますし、仰る通り呆れますよね。
誰かのせいにしても解決できず、また、人間の都合良く地球が動いてくれることなどないということに、いよいよ多くの人が気がつく時代に入ったように思います。
私たちは、誰もがとても微力です。その微力さを実感しながら、与えられたものを楽しむことにフォーカスして、これからも与えられた人生を楽しくして生きましょう。
どうぞ、これからも宜しくお願い致します。
人間は特別だと言う人は確かにいらっしゃいますが
脳の構造は、確かに他の動物達と比べて特別かもしれませんが
人間の存在自体、この世界での立ち位置は、おっしゃる通り自然の一部だと思います。
スピ業界で流行りの「龍神使い」と称するもの。
龍神も精霊と呼ばれる存在達も、自然の一部。
人間の都合で体良く利用する、その精神、思考にも危うさを感じざる得ません。
お読みくださりありがとうございます。
どこから沸いてきたのか、「龍神遣い」本当に流行ってますね。
私が推察するに、「龍神遣い」を商売にしている人の全ては、幻想を見ています。
幻想による幻想を自分で作り出して酔っているだけだと思います。
それに、力のある龍神は、人間の遣いなど致しません。
化けた動物霊に馬鹿にされていることに気がつけくなってしまうほど、人の心は荒廃してしまっているとしか言いようがないですが、まぁ、本人が選んだ道なので、どんな未来を創造しようと、こちらは情にほだされることなく、気高く生きて生きましょう。
それが、彼らの幻想を消していく一つの作業に繋がっていくはずだと思っています。
どうぞこれからも宜しくお願い致します。
こんばんは。
どうしてもコメントせずにいられなかったのでコメントさせてもらいます。
この記事を読んである私的に長年の謎が解けました(笑)
今まで私は自分は自然の一部、全ては循環していて当たり前と思ってました。自然に生かされてると。みんなそうおもっているだろうと。
でも、何故か周りの人達と違う、馴染めない、壁を感じる、距離を感じるとどこにいても居場所がない感じがしてたんです。自分がオカシイんだと何度もとけこもうと努力して疲弊していた気がします。
で、
>ノイズの波動で生きている現代人がひしめき合う中で「自然の一部に属する存在である」と思うことは、笑われてしまうことだということも、もちろん自覚して生きています。
この部分を読んだ時、自然の一部に属するってみんな思ってないんだと(笑)いや、中には思っている人もいると思いますが。かなり、ショックな(いい意味で)気づきでした。
そりゃ、馴染めないはずですよねw
なんだかスッキリしました。これも事実として受け止めて上手く付き合う努力をしますw
記事を書いていただきありがとうございました。
これからも応援してます!
お読みくださりありがとうございます。
過去の私もそうでしたが、ピラミッド型の社会を真実として椅子取りゲームに集中していくと、本来当たり前のはずのことが当たり前ではなくなっていき、当たり前のことに気がつけなくなっていきます。
ともさんのようにずっと、循環型の意識の中で生きていたのなら、この人生は相当辛かったと思います。本当にご苦労が多かったことでしょう。ですが、ようやく地球はともさんの考え方に準じた世界に戻りつつあるので、今までの苦労が報われる体感をすることがきっと増えていくだろうと思います。
ただし、先のブログでお伝えした通り、多くの人は違う意識と世界観の中で生きていることを認識していなければ、やはり苦労は伴うはずなので、そこははっきりと認識して、その上でどうか気高く生きてください。
今後のともさんの日々が活き活きしたものであり続けますように。
心から応援しています。
こんにちは
お返事ありがとうございます。
あたたかい言葉ありがとうございます。
>多くの人は違う意識と世界観の中で生きていることを認識していなければ、やはり苦労は伴うはずなので
そのおとりだと思います。
そして大半の人はその事がわからないので自分の主観を信じ、すれ違ってしまうんですね。それはもうイヤと言うほど実体験しましたw
こちらはなんの意図もなく話してるのですが、変に悪くとられたり嫉妬されたりマウンティングされたり。
しまいには何を話せばいいのか人と話すのすら怖かったですw自分の話し方も悪いのでしょうがw
波はありますがこれからも毎日を淡々と自分が出来ることをしながら生きていこうと思います。
ありがとうございました。
こちらこそ、ありがとうございます。
波を保つことは苦労は伴いますが、やった結果は必ず自分に返ってきます。
応援しています。
これからも宜しくお願い致します。
長渕剛の「復興」という詩をご存知ですか?
東日本大震災の後、書いた詩らしいです。(ググってみれば、すぐに検索できると思います)
彼をディスっているわけでも無いですし、彼のファンには申し訳ないですが、仙台で被災した自分からするととても嫌な感じがする詩でした。当時の自分のFacebookにも「嫌な詩だ」って書いてあるし。
ネットでは感動したとか涙が出たという意見が多く見られたようですが、少なくとも自分の周りでは違和感を感じるという人が一定数いた気がする。
でも、何だかこれが今の日本(人)の状況を端的に表しているような気がして、ちょっと思い出したので、ここにコメントしました。
個人的には、こんな詩よりは「潮の匂いは」という、被災した石巻の高校生の書いたものを読んでみて欲しいですね。
人が自然とどのように向き合っていくべきか…について、ちょっと考えさせられると思います。
いつも大切な情報をお寄せ頂き、恐れ要ります。
ひでぽんさんのコメントで、長渕剛の「復興」散文詩の存在を知り、今さっき確認させて頂きましたが、身の毛もよだつ気持ち悪さがありました。私は長渕さんの事が嫌いではありませんし、特に「巡恋歌」は好きで、お風呂に入っている時につい歌ってしまいます。
ただ、あの「復興」の詩はいただけないですね。自然に対する敵視ばかりで、まるで自分たちには全く非がないと言わんばかりの言葉の数々に、彼の中にある独りよがりを強烈に感じてしまうことになりました。そう言えば、長渕さんは自衛隊をどうもレスキュー隊と誤解している節も多く、そういった小さな誤解によってあのような詩を発表する心持ちになっているかなと思いました。
この間ご指摘くださった「恐れ」と「畏れ」の違いを改めて認識するきっかけとなりました。ありがとうございます。
「潮の匂いは」の存在も今回初めて知り、読ませて頂きました。こちらの文章は、読み始めた途端、胸につまるものが込み上げ、ポロポロと涙が溢れてしまいました。
自分の中に宿った全ての気持ちを感じ取り、その上で全てを受け入れて、生きる。その中にある心の葛藤や素直な思いが人間が人間たる理由を教えてくれたように思いました。
教えてくださり、本当にありがとうございます。
これからも宜しくお願い致します。