どこまでいっても、行き着く所は結局同じ。
人の言動というのは、無自覚であったとしても、必ずその人の信念が現れるものだと思う。
人は自分の心持ちの中に存在しない言動は、そもそも行えないようになっていると思う。
言動の前には予め「想像」や「思考」という過程が存在している。
だから、自分の頭の中に存在しうる範疇以外の物事に対しての言動は欠落するものだと思う。
とすれば、結局人の言動は「想像」や「思考」の元となる情報があってこそということになる。
そして、その情報がいずれ信念となり、真実となり、現実になっていく。
「嘘も100回言えば真実となる」は、人間というものが結局情報で組み立てられた動物であるということを結論付けているように思う。
この地球の中に存在する生物の中で、やっぱり人間は異色だなって思う。
他の生物は、本能に忠実に生きられるようにセットされて、そして本能に忠実に生きることで地球の循環を促している。
こと人間だけは、本能以上に情報に左右されるようになっている。
さらに、先天的に本能で持ち合わせているはずの道理よりも、後天的に与えられた情報の方が真実になっていく側面も持ち合わせている。
そして、私たちの強みはこの部分であり、弱みもこの部分なんだなって思う。
だから、支配者たちは情報の主導権を握りたがるのだと思う。
人間は情報によってコントロールできるという、根本的な仕組みを理解しているからなのだと思う。
でも、どんなに情報で人を縛ろうとしても、結局人を縛り続けることはできない。
それは、この地球で何度も国作りが失敗していることを見ればよく分かる。
唯一建国以来滅びる経験のしたことがない日本だけが、道理を柱とした国作りをしていたけれど、この日本も72年前に敗戦という痛手を受けた時に、戦勝国によって与えられた情報によって、道理よりも情報が優先されてしまう下地ができあがってしまったように思う。
さらに世の中は高度情報社会に突入し、誰もが否が応でも情報と触れあわなければならない環境に陥っている。
入り口の情報を間違い、大量に蒔かれる情報を信じ、そして道理を見失った時、それは滅ぶことに繋がることを歴史は教えてくれている。
それでも、人は情報で作られてしまう。
これは変えられない事実。
どんなに自ら首を絞めることになっていても、「正しいと言われる情報を信じれば」人はそちらに行ってしまう。
何を信じる信じないではなく、人間という物の枠組みがこういう仕組みでできていることに多くの人が気がつけばいいなぁと思う。
何が正しいか正しくないかでなく、そう思う根源の要因を探るようにしていく。
感情に敏感になる、そしてその出所を突き止める。
すれば、如何に自分が情報というものに誘導されて生きているのかが分かると思う。
体感を持ってそのしくみが理解できると、自分で自分の首を絞めるような情報を選別できるようになるはずなのになって、思ってる。
【縦書き】
【横書き】
本の内容一部を公開してます。
本の紹介ページはこちら↓