【悲しい】君民一体国家こそが理想形だったのに……

2018年10月29日

国家も国体も国益も国旗も国歌も国史も国士も、国が付く言葉が悉く否定されてしまった戦後日本。

すっかり国というものが何なのか分からなくなってしまった国民たちは、勘違いした自由を求めるようになりました。

 

搾取という概念がなかったはずの日本

戦前までの日本は、それぞれの「役割を全うすること」が軸となって社会ができる、循環型社会であったはずだと、著書などを通してお伝えさせ続けて頂いております。

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それぞれの役目を全うすることで循環する食物連鎖のように、日本の社会は持ち場立場を全うすることで生まれる循環型社会を実現してきました。

それは、君主でおられる立場の皇室にあられても同じこと。

皇室は皇室の役目を、武家は武家の役目を、百姓は百姓の役目をと、与えられた持ち場立場の役割を認識し真っ当することで、我が国は、他国が真似したくても真似できないほどの穏やかで平和で、笑顔の絶えない日常が与えられていました。

ですが、この循環型の思想が間違っていて、ピラミッド型の搾取世界が善であると、戦後と同時に日本人は植え付けられることになります。

上に登れば、自由で開かれた社会にありつけるものと思い込み、循環型だったはずの日本も、あっという間に弱肉強食の世界に飲み込まれることになりました。

これは虚像の社会です。上に登って幸せになるはずなどありません。

 

上には制限と責任を、下には自由があったかつての日本

アダルトチルドレンの問題にのめり込むようになって、改めて戦後と戦前とで「何が違うのか」を考えなおそうと思い、江戸時代や平安時代の事が書かれた文献を読みふけっていました。

そこにははっきりと書かれていました。

上流階級と下流階級にあるものの違いが。

それは現代人が考えるものとは真逆のものでした。

 

上流階級は、贅沢な暮らしと引き換えに、様々な制約がありました。結婚も恋愛にも制約が付きまとい、家督を継ぎ、お家を繁栄させることが無条件に与えられるだけでなく、管轄域における住民の暮らしを守る責任を与えられていました。庶民から見れば、贅沢と言えど、その贅沢は多くを守るためにあるものであり、食事に至っては、概ね庶民と変わらない生活を上流階級もしていました。

一方、庶民たちには、上流階級と比べ圧倒的な自由が与えられていました。庶民としての生活レベルの制限はあったものの、結婚も恋愛も自由なことはもちろん、制約など無いに等しいと言えるものでした。

特に江戸時代の庶民の女性たちには、男性と比べて職業選択の自由が広く与えられていました。庶民であっても力量さえあれば、お城勤めができる特権は女性だけに与えられていたものです。ですから、封建社会と言えど、女性には様々なチャンスが与えられていたのが、江戸の実情だったのです。

ですが今は、上流階級になることでしか、自由を謳歌できないという発想が大きく広がり、上に上った奴が勝ちという風潮が蔓延しています。そして、上流階級が責任と制限を放棄して、勝って自由気ままに下部をコントロールするという、今までの日本の歴史にはなかった搾取社会がどんどん実現してしまっています。

ですから、庶民の多くは上流階級に敵意を示し、また上流階級は自分の利権を守るために策を講じるという、不必要な問題が生まれるようになってしまいました。

 

君民共治は、民主主義より高度な社会です。

ここ数日何度もご紹介している「日本人に謝りたい―あるユダヤ人の懴悔」にはこんな一文もありました。

日本民族のもつ最大の財産は天皇制である。これは全く世界に類例のない偉大なものであり、人類の理想とするものである。

かつてユダヤ人の大思想家でフランス革命に大きな思想的影響を与えたジャン・ジャック・ルソーは、かの有名な『社会契約論』で次の如きことをいっている。

「人もし随意に祖国を選べというなら、君主と人民の間に利害関係の対立のない国を選ぶ。自分は君民共治を理想とするが、そのようなものが地上に存在するはずもないだろう。したがって自分は止むを得ず民主主義を選ぶのである。」

ここでいう君民共治というのは、君主が決して国民大衆に対して搾取者の位置にあることなく、したがって国民大衆も君主から搾取されることのない政治体制のことである。

ところがここで驚いたのは、日本人にこの話をするとみな不思議そうな顔でキョトンとする。私は最初その意味が全くわからなかった。しかし、だんだんその意味がわかってきた。日本の天皇制にはそのような搾取者と被搾取者の関係が存在しない、ということを私が知らされたからである。今度は私の方が驚かされた。

日本人のためにちょっと説明しておくと、欧州でも、また最近追放されたイランの王室でも、君主はみな国民大衆に対しては搾取者の地位にあるものである。したがって、亡命するときは財産を持って高飛びする。これが常識である。だが、日本人の知っている限り、このようなことは君主制というものの概念の中には全く存在しないのである。

しかるに、ユダヤ人ルソーの思想は搾取、被搾取の関係にない君主制を求めているわけである。これは確かに理想である。しかし残念ながら、ルソーはそのようなものが実在できるはずもないからやむを得ず、民主主義を選ぶというものである。

私がルソーの時代に生きていたならば、ルソーにこういったであろう。「直ちに書きかけの社会契約論など破り捨て、速やかに東洋の偉大な君主国へ馳せ参ぜよ」と。

ここで非常に重要なことをルソーはいっているのである。今日本で絶対の善玉の神として一切の批判をタブー化されている民主主義というものは、ルソーによれば君民共治の代替物にすぎないということである。私が日本人を最高に尊敬するようになったのも、この天皇制というものの比類ない本質を知ったからである。

日本では戦前、比類なき国体という言葉があった。またポツダム宣言受諾の際にも、この国体の護持という点が一番問題になったのである。これは真に賢明なことであった。

この日本の天皇制はユダヤ思想の理想であったことはルソーの言葉でもわかるが、他にもあるユダヤ人の言った言葉に次のようなものがある。

「わがユダヤの王は、目に見えない護衛だけで守られる。われらの王は威厳にみちてその権力を行使するのは人民の幸福のためにだけであり、決して王自身や王朝一族のためにこれを用うることはない。かくして王への尊敬と威厳はいやが上にも高まり、人民に崇拝され敬愛されるのである。そのため王は神格化されるだろうが、それはひとえに王の権威が人民に安らぎと幸福を保証するコーディネーターの役を果たすからに他ならない。」

断っておくが、これは日本の天皇制の描写ではない。ユダヤ民族の理想の表現なのである。これを見てもおわかりと思うが、ユダヤ人はルソーのいった如く、国民との利害関係をもたない君主が理想なのである。

私が日本の天皇制の本質を知ったときの驚きが如何なるものであったかは、推して知られたい。地球上にユダヤ民族の理想が実在したのである。一般のヨーロッパ人は、とてもこのようなすばらしいものを創ることはできないであろう。我々ユダヤ民族も残念ながら未だ創ってはいないのであるが、しかしそれがすばらしい理想であるということを知っているだけでも日本人に近く、ヨーロッパ人よりも優れていることを日本人に認めていただければ無上の光栄である。

一般にユダヤ人が天皇制の類い稀な点を発見したのは、戦後の天皇とマッカーサーの会見の時であった。かといって、ユダヤ人全部が知ったわけではない。今日本で勝手気ままにペンを走らせている若僧たちはもとより、こんなところまで知っているわけではない。

色々調べてたら、全文ではないけれど「日本人に謝りたい―あるユダヤ人の懴悔」の要所となる原文を掲出してくれているサイトを見つけました。

良かったら、ぜひここから原文に触れてみてください。

 

私たちは、民主主義よりも高度な社会体系で生きていたのに、それが愚だと刷り込まれた上で、民主主義こそが素晴らしいと思い込まされました。そして、間違った方向で模索して苦しんでいます。

民主主義よりももっと高度な社会体系に戻れる日はいつのことでしょうか。

もう難しいのでしょうか。

そんな事を思い悩むと苦しくなりますが、一人一人が与えられた役目を全うしようという心持を持つことで、その回転は少しずつ動き出すのではないかという期待を今私はしています。

 

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日本人に謝りたい―あるユダヤ人の懴悔