【気をつけて】正義と悪は、実は同義語です。

正義と悪って、真っ逆さまの反対の言葉や現象に見えるし、

実際、正義の反意語を調べれば悪と出てくるし、逆にこれ然りなり。

だけれどもね、

あくまでこれは言語の世界における語意としての定義にすぎなくて、波動を軸に見てみれば、全く違う解釈になるんだよ。

今日は、このことについて言及しますね♪

 

 

正義と悪がどうして同義語になるの?

 

正義と悪なんて真反対に見える事象を同義語に扱うなんて、とんだ不届き者と思われると思いますが、どうぞ怒らずに最後まで読み進めてくださいね。

同義語だと結論付ける前に、まずは正義と悪って結局なんなのか?確認してみましょう。

 

 

正義と悪って、実は各々の主観に過ぎないんですよね。

人というのは自分が悪だという意識になる時は、とてつもなく少ないですが、実は「正義である」時も、「悪になる」時も、同じ考えの軸の中で思いが発露されているのです。

それは、

人とは、自分にとって正しいが正義となり、自分にとって悪いが悪となるからです。

悪になろうと正義になろうと、その軸となる判断は同じ基点の思想によってなされるのですね。

ここがポイントです。

 

実は全く違うように見えて、判断や主観はある一つの、つまりその人が持つ主観の定義によってなされているということです。

 

この主観の中にある軸たる思想という枠の中で、私たちは「善悪」を判断しているに過ぎず、その判断の枠の中にいる限り、実はどちらも五十歩百歩に過ぎないのです。

 

正義、相手から見ればそれは悪

 

人とは、自分にとって正しいが正義となり、自分にとって悪いが悪となります。

逆側から見ても、実はそれは同じこと。

 

あなたが悪だと思っている人がいたとします。

ですが、その人は自分が「悪」だと思って行動していると思いますか?

その人の中に悪意が存在していると思いますか?

自分からの視点で見れば、悪意に満ちあふれている行動も、その人の主観、思想の軸、環境に立った上で見た時、多くは善として正義として成り立っているのが常です。

自分自身が悪の化身として動いていると思う人は、まずいません。

みんなそれぞれの善と正義の上で行動している結果が、今私たちに与えられている環境なのです。

 

つまり、自分にとっての悪は、悪に見える人からの正義であり。

悪側に立つ人たちの正義とは、あなたにとって悪に見えるだけなのです。

それは、主観における思想の軸を基点に、180°違う意見を言っているだけで軸は同じです。

つまり、鏡なのです。

自分の意見が180°違う場所から返ってきただけであって、お互い言っていることは同じ。

言っている基点は同じなのです。

 

波動で言えば同義語のその真意

 

なぜ、波動において「正義も悪も同義語」と言い切れるのか。

その答えは簡単です。

正義とは、自分の主観に基づいて行われる判断に過ぎず、その判断の中で正しいと思う部分が正義として、正しくないものが悪として振り分けされる。

逆に悪に見える側も、180°違う場所から同じ行動をしている。

だからこそ対立が起こる訳ですが……、

共通しているのは、正義に立つにせよ、悪に立つにせよ、どちらも「自分が正しい」という思いの上に成り立っている感情に過ぎないのですね。

つまり波動で言えば見える視点が違うだけの話で、波動領域帯としてはほぼほぼ同じ場所に存在していると言えます。

同じような場所にいるからこそ、感情が沸き上がるのです。

波動があまりに違いすぎれば、正義と悪で見極める感情は起こりにくくなるんです。子供相手の喧嘩に大人が本気になれないように、波動領域帯が変われば変わるほど、相手が正義と主張してくる内容が、あまりに頓珍漢であっても、感情が伴わないようになるんですね。

そして、道理としてその矛盾点を指摘するようになるんです。

自分が正義だ!相手が悪だ!と言ってる間は、どちらも同じ土俵で戦ってるのと同じ。

そして、結局「自分が正義だ!」と感じる強い思いは、いずれ独りよがりになっていき、周りからみたら、「お前こそが悪」という事象を生み出すんですよ。

自分が正しいという思いが強くなればなるほど、

そうでない現実を見かけると、人は怒りを感じるようになります。

 

自分が正しいという思いが強くなればなるほど、

人との意見の相違が許せなくなり、人と意見を分かち合ったり共有することが減り、自分の意見だけが先鋭かしていきます。

 

すると、結局、その人の波動は低く(粗く)なっていくんです。

波動にノイズが混じっていき、

現実や未来に対する恐怖や不安が増し、

心は殺伐としていきます。

 

心は「今」に入りにくくなり、理想とする「未来」のためだけに生きようとしてしまいます。

 

結局、正義にのめり込むと、その人が想定もしていない悪の感情と同期していくんですよ……。残念なことにね。

 

「自分は正しい」、「自分は善」などと自分に対する好意的なレッテルを貼り始めた瞬間から、あなたが思いもつかない悪の魔の手は、あなたの中に入り込むんです。

だからこそ、正義も悪も同義語なんですよ。

 

どうか気をつけてくださいね♪

 

 

 

 

 

 

4 件のコメント

  • でかい話でなく、人と人との言い合い程度の時なんかだったら理解できます
    しかし環境を抜きにした論だと思います

    人と人 が存在するためには環境が存在する

    そうなってくると正義の方向性は必要な概念だと思いますよ!

    だから正義そのものの概念を消してしまわなくてもいいと思いますw

    • お読みくださり、またご意見くださりありがとうございます。

      この記事だけでは言葉足らずだったと思うのですが、どんなに頑張っても人は自分の「正義」は消せませんし、そもそも人間とは「自分にとって正しいと思うことしかしない」動物だと思っています。
      ですから、自分だけの正義だけを正しいと思わない感覚が必要であり、見方を変えればその正義は悪でもあるという捉え方をそれぞれ持つことが非常に大事だと思ってます。

      関連記事貼っておきます。
      http://takehisayuriko.tokyo/2018/09/18/post-2954/

      どうぞこれからも宜しくお願い致します。

  • こんにちは。

    正義と悪は同意語っていうことがよくわかりました。また、ついでにいつも人の悪口ばかりいっている人と距離を置けばいいこともわかりました。

    その人の悪口は、その人にとっての正義であって、私の正義でないから、どうしたもんかと思っていましたが、単に私も、私視点での正義を振りかざそうとしていて、だからこんがらがるんですね。
    別にどっちの意見が正義ってわけじゃないですね。
    正義の意見、悪の意見、じゃなくて、単なる意見、悪口なんですね。

    前のブログで、⚪️×の二次元論について書かれていた記事があったのですが、私もその教育の影響を受けていて、二択、善悪で考えるクセがあるなあ、と気がつきました。
    これは、常に相手との対立を生むので、生きるのが大変になるんですね。わかりやすいんですけど、厄介なんですね。

    どうもありがとうございました!

    • こんにちは。コメントありがとうございます。

      二元論の概念に縛られた私たちは、事実と正義(自分の意見や主張)の区別もついてないから余計にこんがらがるんですよね。
      事実を冷静に見極めた言動と感情的な主観は全く別物なのですが、それが同じ物として扱われているから余計にややこしいんですよ。

      そこを見極めるためには、まず自分の感情が穏やかな状態を維持できる心持ちを作る事が大事だと思ってます。

      それではこれからも宜しくお願い致します。

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